論文フォト 縄文時代のイルカ漁


石川県立歴史博物館蔵『能登国採魚絵図』(1838)
「いるか廻し」(抜粋, 画像処理)


過去30年間に日本および東アジアの捕鯨史研究にとって重要な発見が二つあった。一つは、1972年1月、韓国慶尚南道盤亀台で鯨類や捕鯨の様子などを描いた先史時代岩刻画が発見されたことであり、もう一つは1982・83年に石川県能都町真脇遺跡の発掘調査によって縄文時代文化層からイルカの骨が多量に出土したことである。演者はこれをきっかけに先史捕鯨の研究に取り組み、盤亀台岩刻鯨類の種同定を試みることにもなった。したがって、盤亀台よりも真脇のほうから先に話を始めることにしたい。

真脇遺跡では湿地環境が幸いしてイルカ骨が多量に残っていた。真脇調査以前においても、富山県氷見市朝日貝塚、千葉県館山市鉈切神社洞穴、北海道虻田町入江貝塚など、イルカ骨の出土が目立つ遺跡が知られてはいたが、縄文時代イルカ漁を確証するにはいたらなかった。鯨類骨の多量出土だけでは捕鯨の証拠にはならない。漂着鯨類を利用したにすぎないかもしれないからである。民族例で知られるように、イルカを捕獲しやすい環境で、必用人員さえ確保することができれば、舟と櫂、音をたてるための石とか棒を用意するだけで(網を使う場合もある)、あとは特別の道具がなくても、イルカの習性を巧みに利用した追い込み漁でイルカの群れを捕獲することができる。舟、櫂、石、棒、網などはイルカ漁特有の道具ではないから、それだけではイルカ漁の証拠にはならない。

これに対して、真脇は以下のように縄文時代イルカ漁の研究にとても適した民族考古学的フィールドとなっている。1)哺乳動物遺体組成(最少個体数)では90%がイルカであり、石器組成では石槍が異常な高率を占める。2)第1頚椎でみたイルカの種構成ではカマイルカが60%、マイルカが34%を占める。3)近世文書(富山前田本草)に、カマイルカは網で捕らえるのは難しいから槍で突くのがよいという意味のことが書いてある。4)近世文書(能登採魚図絵)に、毎年きまった季節に回遊してくるイルカの群れを網で包囲しながら追い込む「いるか廻し」の様子が描かれている。5)真脇遺跡の位置する内浦側は、鯨類漂着例が少なく、しかも集団漂着例がない。

真脇遺跡では縄文時代前期後葉〜晩期の各層からイルカ骨が出土しており、合計すると少なくとも286頭分を数える。これらの骨は、調査区全体としては、頭蓋骨から尾椎まで量的に大きな偏りはない。真脇の入江でイルカを捕獲し、浜で解体したあと、河口の後背湿地に骨を捨てたからであろう。ただし、平面分布における骨の集中単位一つ一つでは、頭から尾までそろって1頭分をなす例はない。1頭分の骨格の各部位がどのように分布しているかを確認するには、多量の骨を整理して個体識別する必要がある。最も多く出土したT区]T層(縄文時代前期後葉〜中期前葉)では、6m×15mの範囲に50cm四方単位のグリッドを設定した。個体別分析は、主としてこの範囲から出土したイルカ骨を対象に行ってきた。最初に試みたのは、前鰭骨を構成する上腕骨・橈骨・尺骨のうち、いちばん保存状態のいい上腕骨を対象にしたペアマッチングである。これらの部位では、解体痕は皆無に近く、上腕骨132点中1点(0.8%)認められるだけである。一方、肩甲骨の場合、190点中6点(3.2%)に解体痕がある。しかも上腕骨・橈骨・尺骨では、連結資料が多く出土している。したがって、肩甲骨と上腕骨の間で前 鰭を切り離したと考えられる。もし前鰭に利用価値がなかったならば、まとめて棄てられることが多かったであろうから、上腕骨にはペアをなすものが何組もあっていいはずである。ところが結果は予想から大きくはずれた。左上腕骨56点と右上腕骨60点のペアマッチングでは、たった一組のペアしか認められなかった。しかもこの一組は50cm四方内という近接位置で出土したもの同士である。前鰭にもなんらかの有用性があり、分配の対象となったのかもしれない。

真脇遺跡では、イルカの椎骨が50cmから70cm程度の持ち運びやすい大きさに連なった状態で出土した例が多くある。このような椎骨連結資料同士についても、同一個体例がどれだけあるか検討してみたが、結果は上腕骨の場合と同様であった。すなわち、椎骨連結資料64例中3組(9.38%)しか同一個体をなすものが見つからなかった。いずれも50cmないし1m四方内の位置関係にあるもの同士の組み合せである。椎骨連結資料には、解体の際についた切り傷がよく認められる。特に注目されるのは、ハンドウイルカ?の腰椎から尾椎にかけての連結資料において、末端の椎骨に深い切り傷がついた例である。この傷は、連結椎骨を分断する際に、解体用の石器によりついたものであろう。椎骨には強固な筋肉組織がはりついているから、新鮮な状態で分断するのは容易なことではない。単に廃棄場に運ぶだけなら、そのまま引きずっていけばすむ。あえて分断したのは、大まかに肉を切り取ったあと、まだ有用性を残す椎骨を分配するためだったと考えられる。

上記グリッドから出土した人骨(左大腿骨)破片1点について炭素・窒素安定同位体分析を試みたところ、δ13C値は-17.0パーミル、δ15N値は+12.0パーミルであり、東日本沿岸部の縄文人骨例の変異内におさまる結果を得た。海獣食に大きく依存していればもっと高い測定値を示すはずであるが、真脇の場合、多量にイルカ骨が出土している割にはさほど高くはない。イルカは真脇縄文人にとって多様な食料源の一つとして重要であったとはいえ、年間を通じてみた場合、さほど大きなウエートをしめていたわけではないようである。

捕獲頭数の絶対数を見極めるのは難しいが、イルカ漁の人員や参加集落数などとの相対的な関係を考慮しながら、数頭から数十頭のあいだでシュミレーションを試みてみたい。イルカ漁に参加した集落はもちろんのこと、日ごろから互酬関係にある他の集落にも分配したならば、1集落、1個人当たりの分け前はずっと少なくなってしまう。肉を干したり薫製にすれば保存がきくので、交易品としてさらに広い範囲に流通した可能性も考えられる。獲物を広範囲に分配する習慣は、現代の社会保険のような役割をはたしていたのだろう。日ごろから互酬関係を結んでおけば、困ったときに互いに助け合うことも可能なわけだ。直接的な見返りを求めない分配にせよ、それを求める物々交換にせよ、縄文人は集落内、集落間、さらには地域間で「助け合いのネットワーク」をつくっていたのであろう。

(平口哲夫,1999)

論 文


写真

真脇遺跡背後の丘陵上から小湾を望む(1982)



金沢ひまわり平和研究室 平口哲夫執筆の文献  管理者 平口哲夫