*0001 |
ソフィー [石川] [12/10/02(月)-22:23] |
|
|
|
|
勤務先の図書館長から依頼のあった『後輩に残す1冊・百選』として、佐江衆一著『田中正造』(岩波ジュニア新書,1999)を寄贈しました。田中正造については、学生・院生時代に耳学問で知りました。考古学研究室の先輩に林
謙作氏(現在、北海道大学文学部教授)がいて、その父親にあたる林 竹二先生(東北大学文学部哲学科卒、教育学部教授をへて宮城教育大学学長に就任)が小学校で「人間について」という授業を担当されました。その授業で田中正造を教材に取り上げたことがNHKの番組などで紹介されたりして、林先生の教育観や田中正造の人間像がひろく人々の話題になったと記憶しております。
本学で近代史を担当するようになってから、推薦参考書『病気の社会史』(立川昭二著,NHKブックス,1971)に田中正造が登場するように、私も授業で田中正造を話題にし、現在の人類学でもそうしております。具体的には、第二学期「戦争と病気」の部で足尾銅山鉱毒事件を取り上げ、ビデオ「田中正造」(1992年録画)を見せております。このビデオは何回見ても心を打たれます。
そこで、田中正造の伝記があれば、それを寄贈するのがよいのではないかと考え、まずは最新の本から読んでみようと購入したのが上記の本です。田中正造の伝記はほかにも何冊か出版されていますが、まだ読んでいません。本来ならばすべて読んでから、医学生にいちばん適したものを選んだほうがよいと思いますが、そうするといつになるか分かりませんので、まずは最初に読んだものを贈呈することにしたわけです。
|
|
*0001-01 ソフィー [石川] [12/10/02(月)-22:28] |
|
|
|
|
「田中正造とその郷土」は、お勧めしたいホームページです。
|
|
*0001-02 ソフィー [石川] [12/10/03(火)-17:03] |
|
|
|
|
上記のメッセージを読まれた方から以下のようなメールをいただきました。
「父も足尾鉱毒事件と田中正造に強い関心を寄せていました。1971年に歴程社から刊行した『湿原』という詩集の中で、『鉱毒地帯』という詩を書いていて、その中に、
毒の野や なみだの種はいやまして みのらぬ秋に霜のふるらん
という正造の歌を引いています。父の詩そのものは
ふるさとの丘にのぼった。
丘には菜の花がさいていた。
ではじまり、
おれはみた
かれらがあつまってさいごのこくもつをたべるのを。
おりしも月がでた。
けれど歌声は
葦のように昏く。
地なりのようにひくく。
そのまま
葦になってゆくのを。
で終わる四章からなる長篇詩で、とても紹介し切れませんが。私の母方の一族が、「湿原」の畔に今でも住んでいます。」
|
|
*0001-03 山内利秋 [12/10/06(金)-11:06] |
|
|
|
|
実は僕は、学生時代に旧谷中村を調査したのですよ。
調査担当はなんと山本さんです。>先生
折角ですので、来週にでも詳しく書きます。
|
|
*0001-04 ソフィー [石川] [12/10/06(金)-11:48] |
|
|
|
|
意外!無煙喫茶室も捨てたものじゃない。「無縁」じゃなくて、「有縁」の世界が広がっていく感じ。ぜひ詳しくお願いします。m(_
_)m
|
|
*0001-05 山内利秋 [12/10/12(木)-14:55] |
|
|
|
|
1989年の事でしたが、渡良瀬遊水地のアクリメーション事業というのがあって、遊水地を再開発してウィンドサーフィンできるようにしたり、公園整備などが実施されました。
そこで、この遊水地の中に存在する足尾銅山鉱毒事件の舞台となった旧谷中村の村長であった大野邸跡をうちの大学で調査する事になりました。
#「田中正造とその郷土」では「谷中村遺跡」となっていますが、これは遺跡の名称が正確には違います。遺跡台帳には「旧谷中村遺跡」と書いてあると思います。
調査では、大野邸の母屋と水塚(みずか)と呼ばれる蔵の基礎部分を掘り下げました。水塚とは、この地では水害が多いため、蔵に土盛りがしてあり、母屋よりも高くしているものです。現在でも数件残っています。
また、ここには谷中村廃村以後も、人が住んでいたということがあきらかになりました。
ところでこの調査をやっている際に、文献記録や民俗誌にあたる事ができまして、「聖人」とされる田中正造に関するいくつかの疑問にも出会いました。
すなわち、正造は鉱毒によって農作物への害を糾弾していましたが、近世の検地帳などをみると谷中村ではもともと耕作を主体的に行っていたわけではなく、むしろ、渡良瀬川流域での漁撈活動が生業活動の主たるものだったという事でした。近世末から明治初期においては近くの埼玉県栗橋等においても農業よりもむしろ漁業で町が栄えていたという記録があります。
じゃあ、なぜ正造は漁業ではなく農業の事をフィーチャーしたのかなというのが不思議ですが、あるいはそれは、正造がこの周辺地域の名主であり、ある程度政治的な動きが働いたのかもしれません。
たしか東大のかつての新聞研究所紀要にも正造が政治家としてジャーナリズムを利用したという論文があったかと思いましたが、もう忘れてしまいました。
田中正造に関しては歴史学系の研究が意外と少なく、地域社会における信仰とも結びついているため、当時の僕らには客観的な評価をつけにくかったというのが感想です。
ところで谷中村で最初に鉱毒が問題になったのは明治23年でしたが、僕はその後、同じ明治23年に建築された東京上野の東京音楽学校校舎「奏楽堂」を調査しました。日本最初の公害問題と日本最初の音楽学校....。
あたかもそれは、日本の近代化の「光と陰」を見ている気持ちになりました。
|
|
*0001-06 山内利秋 [12/10/12(木)-15:15] |
|
|
|
|
ああっとすみません、「田中正造とその郷土」では、きちんと「旧谷中村遺跡」と書かれていましたね。失礼しました。僕は「谷中村遺跡を守る会」の方を書いたのでした。
ところで、明治23年ごろは谷中村もそうですが、調べてみると近代化過程に伴う弊害が次々と出てきています。
例えば、この頃の大規模森林伐採によって和歌山の熊野大社(熊野神社の方だったかも?)も大雨のがけ崩れで流されています。
|
|
*0001-07 ソフィー [石川] [12/10/12(木)-17:11] |
|
|
|
|
一般書には書かれていない話をどうもありがとうございます。>山内さん
学生に見せているビデオとは別に、ドキュメント’91「消されゆく亡国のあかし・足尾鉱毒史跡は今」というテレビ番組を録画したものもあります。それには遊水地の再開発問題が取り上げられています。
|
|
*0001-08 山内利秋 [12/10/13(金)-10:39] |
|
|
|
|
それ、現場に撮影に来たんじゃなかったかなと思います。
山本さんがちょろっと映っていたかもしれません。>先生
|
|
*0001-09 ソフィー [石川] [12/10/13(金)-13:05] |
|
|
|
|
調査関係の人が写っているような場面はなかったように記憶していますが、なにかの機会に確かめてみます。ゴルフ場建設計画が問題になっていたようですが、その後、どうなったんでしょう。田中正造の生家の敷地が道路整備で削られそうだということも紹介されていましたが、それは実行されてしまったようですね。
|
|
*0001-10 Kiyoちゃん [栃木] [12/10/14(土)-01:39] |
|
|
|
|
はじめまして、Kiyoちゃんです。私のホームページをご紹介いただきましてありがとうございます。性別内緒と記入しましたが、HPを見ていただくとバレちゃいますね。
田中正造生家の敷地の件ですが、道路拡張に伴い僅かですが北側に敷地全体が移動しました。このことにより現在「正造生家を守る会?」の人達が栃木県ともめておりまして、地元に住むものとしては多少ウンザリしています。
守る会の人達の主張は「文化史跡というものは、現状を変更すると、もはや史跡ではない、復旧せよ。」というものですが、どうなんでしょうか?この理論からいくと、すでに変更してしまったものを、戻したからといって、史跡には戻らないと思うのですが、如何なものでしょうか?
|
|
*0001-11 ソフィー [石川] [12/10/14(土)-10:43] |
|
|
|
|
Kiyoちゃん、書き込みありがとうございます。保存問題はケースバイケースで考えなければいけませんので、経緯をよく知らないでうっかりしたことはいえませんが、少なくとも一般的には「現状を変更すると、もはや史跡ではない」とは言えないでしょう。史跡としての価値が減ずるということなら分かります。道路拡幅工事と史跡保存とを秤に掛けて、どちらを優先するのか、両立の道はないのか、妥協点をどのあたりにするのか、関係者間で十分話し合うことが大切です。強引に事が運ばれたり、信頼関係を損なうような手法がとられたりすると、禍根を残します。
|
|
*0001-12 Kiyoちゃん [栃木] [12/10/22(日)-08:37] |
|
|
|
|
ページが消えた!と思っていましたが、トップ・ページに戻して下さいましたね。
先日は、保存問題に関するご意見、有難うございました。現在、もめているということは、充分話し合わなかったのかもしれませんね。あるいは、話し合っていたが、タイム・リミットで始めてしまったということも考えられます。アッ!そうそう確か大分前から交渉していたようですので、恐らく後者の例でしょうね。
現在、衛生問題が発生している、あの雪印乳業の創業者である黒沢酉蔵氏の「私の履歴書」をKiyoちゃんのホームページに公開しました。是非、読んでくださいね。この記事は、雪印乳業の本社に黒沢氏の写真提供をお願いしておりましたら、小冊子を贈っていただきましたので、関係部分を転載したものです。黒沢氏と正造の交流が描かれていて、面白いですよ!
|
|
*0001-13 ソフィー [石川] [12/10/23(月)-11:48] |
|
|
|
|
アクセスが込む時間帯は、掲示板を軽くするために1頁に掲載する量を少なくするように設定されているようです。
さっそくホームページを再訪しました。雪印乳業の創始者もなかなか立派な方であったということを例の事件の報道がきっかけで知りましたが、田中正造と交流があったとは驚きです。
なお、当方、雪印乳業の販売店から牛乳とヨーグルトを配達してもらっていますが、あの事件にはびっくりしました。とるのをやめようかと妻が心配して言いましたが、生産工場が違うし、こういう事件が発覚したあとは厳重な管理が行われるようになるだろうし、小売店も被害者なのだから継続購入してあげようということになりました。
|