<CGIセンター掲示板過去ログ>[部屋番号]174014/[期間]平成12年10月

金沢ひまわり平和研究室 無煙喫茶室 無煙酒房   無煙世界 セト研掲示版  無煙喫茶

無煙喫茶室

目次


*0010  ソフィー [石川]   [12/10/24(火)-17:59]      

シャチ子さんへ

あの話の続きですが、最近、MM先生からメールをいただきました。現在はトリンギット・インディアンの「死の儀礼」とツィムシアン・インディアンの「文化の再創造」の問題を研究しておられるそうです。今年正月には南東アラスカに行ってこられたとのこと。

  *0010-01 シャチ子 [東京]    [12/10/26(木)-00:07]      
  シャチ子、慌てて参上仕りました。
短期間ながら私が3回程出かけましたのはカナダ・バンクーバー島周辺のクワキウトル・インディアンと沿岸セイリッシュ・インディアンです。トリンギットの南東アラスカを沿岸沿いにそのまま南下した所です。同じ北西海岸インディアンでも、シャチが象徴するものが部族ごとに少しづつ違うところが面白いと思いながら調査しています。
トリンギットは不勉強で「死の儀式」は有力者の死に際するポトラッチなのかな?と思いましたが、間違えておりましたらご指摘下さい。よろしくお願い致します。
シャチはクワキウトルの中で「死」に関係があります。シャチは死んだ人を背中に乗せて死の国に送る役目をします。また、一方で長寿の神でもあります。生態から見てもシャチは長生きですので、それを知っていた昔の人とシャチ(に限らず動物)の関係の深さを物語っているように私には思えます。自然に対する観察眼がとても深かったのではないでしょうか。

  *0010-02 kai [関東]    [12/10/27(金)-23:15]      
  カナダのシャチは7年程プライベートで観察しました。よく話題になるレシデント(定住性)のシャチは魚しか食べない、またトランジェント(回遊性)のシャチは、アザラシやイルカ、クジラを襲う、と言う定説には大きな誤りがあります。私達の目の前で、定住性のお馴染みの家族がカマイルカを襲って食べました。写真は、セトケンニューズレターにも載っておりますが。
また先住民族の方は、今でもシャチを死んだ家族の生まれかわりだと思って神のように扱っていたり、魚を呼ぶ(漁期を知らせる)使者とも呼んでいます。
定住性ではなくて、シャケの季節になるとジョンストン海峡などにやってきたからだそうです。随分昔から、シャケを取り合うこともなく人間とシャチは共存していたようです。
また魚しか食べないシャチと言われるようになったのは、ごく最近25年程の話です。
いきなり口を挟んでお邪魔しました。

  *0010-03 ソフィー [石川]   [12/10/30(月)-20:31]      
  定住性のシャチと回遊性のシャチにおける食性の比較は、何かを食べるか食べないかではなく、何をどの程度食べるかという量的なデータで検討しないといけないのではないでしょうか。

  *0010-04 シャチ子 [東京]    [12/10/31(火)-00:20]      
  定住性のシャチは魚を食べる、回遊性のシャチは海棲哺乳類を食べることが”よく観察されている”と言うのが、正確に近いと思います。
「ほんのわずかだか、イルカやアザラシを襲うレジデント(定住性)がいる、ただ攻撃して困らすのも含む」という記述もあります。
この「定住性のお馴染みの家族」は何ポッドか教えて頂けますか?シャチの写真による個体識別は大変難しく、私には特定することができません。それから、kaiさんはカマイルカが捕食される所までご覧になったのですか?とても興味があります。シャチの観察が組織化されて大体25年ですが、ジョンストン海峡はリサーチャーが多く、それゆえ色々なデータが集まって、シャチの研究も進むのでしょう。
シャチってよく知らないなあとお思いの皆様方へ、カナダ西海岸のシャチは、写真撮影による個体識別と言う調査が進んで、全シャチの個人(個鯨?)と家系の戸籍謄本ができております。

  *0010-05 シャチ子 [東京]    [12/10/31(火)-00:28]      
  いけない、本業が...。
kaiさんがお話を聞かれた先住民の方は、どの民族(部族)の方でしょうか? あるいはどこの町にお住まいの方か、教えて頂けますか? よろしくお願い致します。

  *0010-06 kai [関東]    [12/11/03(金)-21:15]      
  シャチ子様お返事が遅れました。
まず、定住性のシャチと回遊性のシャチと言う区別もあまりはっきりしていないと思っています。定住性と言われているものも回遊はしています。つまり移動しています。食性もその年の環境で随分変わるようです。どの程度の海域を回遊、もしくは定住と言われるのかでも違いますが、定住性と言われているシャチもジョンストン海峡またはバンクーバー島周辺にもいつもいるわけではありません。また主に観察されているのは夏で冬の厳しい時期には観察する人も減りますがシャチも餌を求めて移動しています。また夏にも全く戻ってこない定住生と言われるシャチも遠くの海で発見されています。私達は、7年程前に、定住と、回遊の区別にも疑問を持って自分の目で観察し確かめて見ることにしました。幸い、多くの研究者や協力者の個体識別が盛んで戸籍簿がしっかりできているので、身元がすぐ分かっているのはすごいですね。シャチも食べるものがなくてお決まりの時期に現れなくて観光客をがっかりさせていますが、自然界の食うか食われるかは厳しいようです。
カマイルカの捕食についてどこかに詳しく書きましたが、お馴染みのシャチは、Aポッドです。
それにしてもカナダではここまでシャチの多くの情報を集積しているのはすごいことです。最近は環境も随分変わり、今までどうりには行かないことも多くてシャチにも棲みにくくなってきたようです。
先住民族の方についても島の名前を確認してお知らせします。

  *0010-07 ソフィー [石川]   [12/11/04()-13:03]      
  定住性と回遊性というのもはっきり線引きできるものではないということですね。すると、個体にせよ群れにせよ、どの程度の期間、1ヶ所にとどまっているのかという観察の結果として、比較的長くとどまるものと、比較的頻繁に回遊するもの、またはその中間的なもの、という具合に相対的な分類がなされ、その分類ごとに食性の傾向が検討されているのではないかと推察します。また、同じ個体や群れが、あるときは長期間とどまり、あるときは短期間しかとどまらないという現象が見られるとしたら、その要因が問題となり、餌との関係も問われることになるでしょう。そのようなシャチの生態がその地域の人間との関係にどのような影響を及ぼしているのかということが、文化人類学的な関心事の一つとなっているのではないでしょうか。

  *0010-08 シャチ子 [東京]    [12/11/06(月)-08:16]      
  おはようございます。シャチ子@旅行帰りです。
レジデント(定住性)が移動しないと言う説明は私は読んだことがありません。kaiさんどの本に書いてあったのでしょうか。
ID BOOK(個体識別本)では、6月〜10月のサケの遡上シーズンに特定の海域に来ることがよく観察されているシャチがレジデントと分類されています。シャチのメッカとして有名なジョンストン海峡は、その海域の一部です。全部ではありません。海峡へよく来るお馴染みのポッド(群れ)もあれば、このポッドを見るのは珍しいねと話される事もありますね。
シャチの生態研究者の方々に「冬の間はレジデントはどこに行っているのですか?」と訪ねると、答えは「詳しくはわからない。○○(色々な地名が入る)で目撃されたことがあるよ。」です。
まとめるとソフィー先生の仰る通りですね。長々と失礼しました。(笑)

ID BOOK(個体識別本)よりの受売りです。
1.分類の比較は、食性、背びれのシェイプの形、行動範囲、群れのサイズ、鳴音(声というか音によるコミュニケーション)などです。
2.中間型は分類されていません。
現在のところ、と言った方がいいかもしれません。この2タイプとは別にオフショアと言うタイプも発見されています。海峡を通らない沖合い型です。
調査が継続して続くことで、もっといろいろな事が観察/発見されるでしょう。期待しています。文化人類学の話に行き着きませんが、これにて一先ずさようなら。

    *0010-09書込者の削除      
 
  *0010-10 Kai [関東]    [12/11/09(木)-18:48]      
  お返事がおくれました。定住性は移動するかしないかと言うのは本に書いてあるのではなくて研究者間での分類上の問題です。idbookは家族の戸籍簿と思われて3タイプの分類には種の分類とは違いますので御注意ください。
また学術的な見地でも少し違うように思います。
生態の違いもどう定義するかが重要です。私自身の研究上ではこの線引きの定義は実際には当てはまらないと思っています。オフショアとは何かもしっかりとした定義の証明はありません。正直のところかなり苦しい展開だと思います。
また以前から言われている北と南のレジデントもかなり棲む海域を変えてきています。
オフショアも海峡には現われています。
つまり棲みわけも食物の食べわけも、どうやら線引きが難しくなっているからです。なき音は明らかに三タイプに分けれていて不思議ですが。
これがどうして違うかはわかりませんが、家族のなき音に方言があるのが特徴です。また先住民族の方がこの分類をしていたわけではないので、
シャケ好きのシャチがよく夏に現われて最近の研究者にお馴染みになったと考える程度で良いと思います。そしてIDのおかげでどこかで発見されれば、移動したことがわかりますから。
しかし生態ではっきりと三つのグループに別れているとも言いがたくなっているのが現状です。
ただすばらしいことは、かなりの数の個体を把握していることと家族構成がかなり分かっていることですね。
失礼しました。

  *0010-11 シャチ子 [東京]    [12/11/11()-02:22]      
  海峡の研究者方は常に再検討をしています。
越境は観察しますが、推測でものを言うことはありません。調査はまだ25年、これからも観察事実を積み重ねていきます。
シャチの種類は違いません。それでは、さようなら。


*0009  ソフィー [石川]   [12/10/17(火)-22:37]      

日本も鯨肉を捨てていた時期があった

大村秀雄著・粕谷俊雄編『南氷洋捕鯨航海記―1937/38年揺籃期捕鯨の記録―』(鳥海書房、2000)をペラペラめくっていたら捕鯨操業の写真が掲載されていました。その最後の写真の説明文を読んでびっくり。「肉を捨てる。内地持ち帰りを許可された少量をのぞき、肉はほとんど全部捨てた」と書かれているのです。日本では鯨を余すところなく利用したとよく言われているのに、これはどうしたことでしょう。そこで本文を拾い読みしてみると、「当時の日本の捕鯨の主な生産物は鯨油であり」、「農林省は沿岸捕鯨と国内の畜産を保護するために、南氷洋から鯨肉を持ち帰ることを厳しく制限していた」、「鯨肉の国内持ち帰りが奨励されたのは1946/47年漁期に始まった戦後の南氷洋捕鯨である」と編者によって解説されていました。

  *0009-01 Kai [関東]    [12/10/20(金)-10:13]      
  驚きました。何ということでしょう。昔のNHKニュースを見た時(ビデオでしたが)戦後の食糧難でアメリカが日本に南氷洋捕鯨再開を解禁して肉を持ち還り食料の補給にしたとありました。また山口県の中でも戦前はいっさいクジラを食する習慣がなく戦後の食糧難でクジラを食べざるおえなくて、クジラ肉を見ると戦争を思い出すと言います。日本の食文化とはなかなか一律にはできないものがあると感じました。

  *0009-02 ソフィー [石川]   [12/10/20(金)-10:50]      
  食習慣の地域色は、県単位ではおおざっぱすぎて実態を把握できない場合があります。山口県のどのあたりの話なのでしょうね。

  *0009-03 ソフィー [石川]   [12/10/26(木)-17:05]      
  粕谷先生よりメールをいただきました。ご了解をえて、一部紹介させていただきます。

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大村博士の航海記は、支那事変の始まった頃の日本の捕鯨の姿を記録した1次資料です。陸軍に徴用されて上海に軍需品を運んだために漁場到着が遅れました。当時の政府は南氷洋からの鯨肉持ち帰りを原則禁止しておりましたので、関係者がどんなに苦労したかも判ります。日本は南氷洋でも当時から鯨の完全利用に励んでいたというのは、後からできた幻想にすぎません。戦前と戦後の1頭あたりの生産量の比較をみれば、そのことは明らかです。

国際協定を守り資源保護を進めたいという希望と、利益を追求する業界や政府の間に立って苦しんだ、当時の研究者の苦労を知るにも役立ちます。

手書きの文字の判読と、解説の執筆に予想外の時間がかかってしまいました。著者の存命中に出版できなかったのは残念でしたが、私の定年前に完成することが出来て、ほっとしています。

200部出版しました。皆様、ぜひお買い求め下さい。

  *0009-04 kai [関東]    [12/10/27(金)-23:45]      
  今まで知りたいと思っていたことに答えてくださる貴重な記録です。拝読させて頂きました。私の小学生や中学生時代にの歴史の時間(昭和30年代)には、クジラの食文化については、残念ながら一度も学んだことはありません。しかし国語の時間には、南氷洋の捕鯨船団の辛い航海の話しを読みました。今でも覚えています。しかし、驚いたことに21世紀を目前にして、公立の中学校で、歴史の先生がクジラの食文化についての話しをされてその後に高価な美味しいクジラを食べたかったらいっぱい勉強して金持ちになれば高級レストランでクジラを食べる事ができると言う授業がありました。私は歴史は正しく伝えなければいけないと思います。何も知らない子供達に、食文化としてクジラを食べることを勧めるのは、間違っていると感じました。文化の継承は、命のバトンであってもっと違うように思います。私は先人に学びたいと思いますが、
戦後の給食を食文化とは思うことはできません。また本当の食文化についてまた本当の捕鯨の歴史についてこどもたちに知らせるのが、私達の役目のような気がします。
粕谷先生、貴重な記録を公開くださりありがとうございました。

  *0009-05 ソフィー [石川]   [12/10/30(月)-11:37]      
  その公立高校の歴史の先生がkaiさんに話したという鯨食の勧めは、確かに感心しない内容です。しかし、鯨食文化を過去の話としてだけでなく、現代に通用する話として適切に取り上げることも大切ではないでしょうか。


*0008  ソフィー [石川]   [12/10/16(月)-16:45]      

生命操作

NHKのBS1討論「生命操作を問う」に参加したことがあります。第1回討論では、討論A−No.165、討論A-No.190、討論A-No.442、討論A-No.210、討論A-No.442、討論B-No.85、討論C-No.42、討論C-No.52、討論C-No.56、討論C-No.71、第2回討論では意見A-No.282、意見B-No.540、意見B-No.549、意見B-No.564が私の発言です。この問題はたいへん難しいので、すぐには答えることができないばかりでなく、自分でも考えが揺れ動くことを認めざるをえません。いまなら、また違った発言をするかもしれません。


*0002  ソフィー [石川]   [12/10/12(木)-10:37]      
旧石器時代
テレビやラジオのアナウンサーが旧石器時代という考古学的時代名を発音するとき、「旧・石器時代」というように旧と石器時代のあいだに区切りを入れ、しかも旧のほうにアクセントを置いています。これが私にはどうも耳障りに聞こえます。旧石器時代の研究者は、むしろ「旧石器・時代」というふうに旧石器と時代のあいだに区切りを入れ、「旧石器」と一気に呼んで「時代」を少し低めに発音するのが一般的ではないでしょうか。

確かに、旧石器時代という名称はヨーロッパにおいて石器時代を新旧二つに分けたことに由来しますので、そういう意味では「旧・石器時代」とか「新・石器時代」というような読み方が妥当かもしれません。しかし、日本の考古学的時代区分・名称に用いられる場合は、少し事情が異なっているようです。私たちはよく「旧石器が発見された」などと言いますが、その旧石器とは本来「旧石器時代の石器」というべきところを略して表現したものなのでしょう。ところが、日本の旧石器時代の石器は、少なくとも定型的な石器については、縄文時代の石器とは形態的に区別がつきますので、「旧石器」は旧石器時代に特徴的な代表的遺物の名称として使われるようになったのではないかと思います。欧文ならば、旧石器はpalaeolith(パレオリス)と表記することができます。

このように考えますと、一連の日本の考古学的時代名称、すなわち「旧石器時代」、「縄文時代」、「弥生時代」、「古墳時代」は、一見したところ無秩序な名称のようで、実はその時代の代表的な遺物・遺構の名称を採用しているという点で一貫性があるわけです。「縄文時代」の「縄文」は土器の縄目文様により名付けられた「縄文式土器」に由来します。また、「弥生時代」の「弥生」は東京都本郷弥生町の地名とって名付けられた弥生式土器という遺物名から来ています。「古墳」は言うまでもなく古墳時代の代表的な遺構です。

日本考古学年報では、日本最古の時代を表す名称については、大筋において「先縄文時代」、「無土器時代」、「先土器時代」、「旧石器時代」という変遷を遂げ、1963年度版(1968年刊)〜1989年度版(1991年刊)までは「旧石器」と「先土器」が相半ばしていますが、1990年度版からは例言に「旧石器時代」とすることが明記されるようになりました。これを「岩宿時代」に変えようという動きがあるようですが、どの名称も一長一短があるのですから、いまさら混乱を生ずるようなことは避けたほうがよいでしょう。

  *0002-01 岡安光彦 [神奈川]   [12/10/13(金)-22:00]      
  私は、杉原荘介に直接教えを受けたので、今でも「先土器」が好きです。未だに、先生独特の、あの口調が蘇ってきます。

  *0002-02 ソフィー [石川]   [12/10/13(金)-22:45]      
  土器の出現を縄文時代の始まりとする考えは、現在でも多くの人が踏襲しています。最近「岩宿時代」を盛んに宣伝している著名な先生方が、かつては先土器時代を支持していたというのが今ひとつ納得がいきません。

杉原先生とは個人的な思い出が二つあります。大学院の学生のときに明治大学の考古学研究室を訪ね、杉原先生と話をしたことが一つ。階段をドタドタと学生が降りてきたら、雷を落とされたので、怖い先生だなーという印象を持ちました。もう一つは、就職して間もない頃、島根県で日本考古学協会の大会があったときに、休憩時間に話をしたこと。頭を掻きながら勤務先の事情を話題にしたら、飯を食うことが先決だよと慰めてくれたので、人情味のある先生だなーと思いました。


*0001  ソフィー [石川]   [12/10/02(月)-22:23]      

田中正造

勤務先の図書館長から依頼のあった『後輩に残す1冊・百選』として、佐江衆一著『田中正造』(岩波ジュニア新書,1999)を寄贈しました。田中正造については、学生・院生時代に耳学問で知りました。考古学研究室の先輩に林 謙作氏(現在、北海道大学文学部教授)がいて、その父親にあたる林 竹二先生(東北大学文学部哲学科卒、教育学部教授をへて宮城教育大学学長に就任)が小学校で「人間について」という授業を担当されました。その授業で田中正造を教材に取り上げたことがNHKの番組などで紹介されたりして、林先生の教育観や田中正造の人間像がひろく人々の話題になったと記憶しております。

本学で近代史を担当するようになってから、推薦参考書『病気の社会史』(立川昭二著,NHKブックス,1971)に田中正造が登場するように、私も授業で田中正造を話題にし、現在の人類学でもそうしております。具体的には、第二学期「戦争と病気」の部で足尾銅山鉱毒事件を取り上げ、ビデオ「田中正造」(1992年録画)を見せております。このビデオは何回見ても心を打たれます。

そこで、田中正造の伝記があれば、それを寄贈するのがよいのではないかと考え、まずは最新の本から読んでみようと購入したのが上記の本です。田中正造の伝記はほかにも何冊か出版されていますが、まだ読んでいません。本来ならばすべて読んでから、医学生にいちばん適したものを選んだほうがよいと思いますが、そうするといつになるか分かりませんので、まずは最初に読んだものを贈呈することにしたわけです。

  *0001-01 ソフィー [石川]   [12/10/02(月)-22:28]      
  「田中正造とその郷土」は、お勧めしたいホームページです。

  *0001-02 ソフィー [石川]   [12/10/03(火)-17:03]      
  上記のメッセージを読まれた方から以下のようなメールをいただきました。

「父も足尾鉱毒事件と田中正造に強い関心を寄せていました。1971年に歴程社から刊行した『湿原』という詩集の中で、『鉱毒地帯』という詩を書いていて、その中に、
 毒の野や なみだの種はいやまして みのらぬ秋に霜のふるらん
という正造の歌を引いています。父の詩そのものは

ふるさとの丘にのぼった。
丘には菜の花がさいていた。

ではじまり、

おれはみた
かれらがあつまってさいごのこくもつをたべるのを。
おりしも月がでた。
けれど歌声は
葦のように昏く。
地なりのようにひくく。
そのまま
葦になってゆくのを。

で終わる四章からなる長篇詩で、とても紹介し切れませんが。私の母方の一族が、「湿原」の畔に今でも住んでいます。」

  *0001-03 山内利秋    [12/10/06(金)-11:06]      
  実は僕は、学生時代に旧谷中村を調査したのですよ。
調査担当はなんと山本さんです。>先生
折角ですので、来週にでも詳しく書きます。

  *0001-04 ソフィー [石川]   [12/10/06(金)-11:48]      
  意外!無煙喫茶室も捨てたものじゃない。「無縁」じゃなくて、「有縁」の世界が広がっていく感じ。ぜひ詳しくお願いします。m(_ _)m

  *0001-05 山内利秋    [12/10/12(木)-14:55]      
  1989年の事でしたが、渡良瀬遊水地のアクリメーション事業というのがあって、遊水地を再開発してウィンドサーフィンできるようにしたり、公園整備などが実施されました。

そこで、この遊水地の中に存在する足尾銅山鉱毒事件の舞台となった旧谷中村の村長であった大野邸跡をうちの大学で調査する事になりました。

#「田中正造とその郷土」では「谷中村遺跡」となっていますが、これは遺跡の名称が正確には違います。遺跡台帳には「旧谷中村遺跡」と書いてあると思います。

調査では、大野邸の母屋と水塚(みずか)と呼ばれる蔵の基礎部分を掘り下げました。水塚とは、この地では水害が多いため、蔵に土盛りがしてあり、母屋よりも高くしているものです。現在でも数件残っています。

また、ここには谷中村廃村以後も、人が住んでいたということがあきらかになりました。

ところでこの調査をやっている際に、文献記録や民俗誌にあたる事ができまして、「聖人」とされる田中正造に関するいくつかの疑問にも出会いました。

すなわち、正造は鉱毒によって農作物への害を糾弾していましたが、近世の検地帳などをみると谷中村ではもともと耕作を主体的に行っていたわけではなく、むしろ、渡良瀬川流域での漁撈活動が生業活動の主たるものだったという事でした。近世末から明治初期においては近くの埼玉県栗橋等においても農業よりもむしろ漁業で町が栄えていたという記録があります。

じゃあ、なぜ正造は漁業ではなく農業の事をフィーチャーしたのかなというのが不思議ですが、あるいはそれは、正造がこの周辺地域の名主であり、ある程度政治的な動きが働いたのかもしれません。

たしか東大のかつての新聞研究所紀要にも正造が政治家としてジャーナリズムを利用したという論文があったかと思いましたが、もう忘れてしまいました。

田中正造に関しては歴史学系の研究が意外と少なく、地域社会における信仰とも結びついているため、当時の僕らには客観的な評価をつけにくかったというのが感想です。

ところで谷中村で最初に鉱毒が問題になったのは明治23年でしたが、僕はその後、同じ明治23年に建築された東京上野の東京音楽学校校舎「奏楽堂」を調査しました。日本最初の公害問題と日本最初の音楽学校....。

あたかもそれは、日本の近代化の「光と陰」を見ている気持ちになりました。

  *0001-06 山内利秋    [12/10/12(木)-15:15]      
  ああっとすみません、「田中正造とその郷土」では、きちんと「旧谷中村遺跡」と書かれていましたね。失礼しました。僕は「谷中村遺跡を守る会」の方を書いたのでした。

ところで、明治23年ごろは谷中村もそうですが、調べてみると近代化過程に伴う弊害が次々と出てきています。

例えば、この頃の大規模森林伐採によって和歌山の熊野大社(熊野神社の方だったかも?)も大雨のがけ崩れで流されています。

  *0001-07 ソフィー [石川]   [12/10/12(木)-17:11]      
  一般書には書かれていない話をどうもありがとうございます。>山内さん

学生に見せているビデオとは別に、ドキュメント’91「消されゆく亡国のあかし・足尾鉱毒史跡は今」というテレビ番組を録画したものもあります。それには遊水地の再開発問題が取り上げられています。

  *0001-08 山内利秋    [12/10/13(金)-10:39]      
  それ、現場に撮影に来たんじゃなかったかなと思います。
山本さんがちょろっと映っていたかもしれません。>先生

  *0001-09 ソフィー [石川]   [12/10/13(金)-13:05]      
  調査関係の人が写っているような場面はなかったように記憶していますが、なにかの機会に確かめてみます。ゴルフ場建設計画が問題になっていたようですが、その後、どうなったんでしょう。田中正造の生家の敷地が道路整備で削られそうだということも紹介されていましたが、それは実行されてしまったようですね。

  *0001-10 Kiyoちゃん [栃木]    [12/10/14()-01:39]      
   はじめまして、Kiyoちゃんです。私のホームページをご紹介いただきましてありがとうございます。性別内緒と記入しましたが、HPを見ていただくとバレちゃいますね。
 田中正造生家の敷地の件ですが、道路拡張に伴い僅かですが北側に敷地全体が移動しました。このことにより現在「正造生家を守る会?」の人達が栃木県ともめておりまして、地元に住むものとしては多少ウンザリしています。
 守る会の人達の主張は「文化史跡というものは、現状を変更すると、もはや史跡ではない、復旧せよ。」というものですが、どうなんでしょうか?この理論からいくと、すでに変更してしまったものを、戻したからといって、史跡には戻らないと思うのですが、如何なものでしょうか?

  *0001-11 ソフィー [石川]   [12/10/14()-10:43]      
  Kiyoちゃん、書き込みありがとうございます。保存問題はケースバイケースで考えなければいけませんので、経緯をよく知らないでうっかりしたことはいえませんが、少なくとも一般的には「現状を変更すると、もはや史跡ではない」とは言えないでしょう。史跡としての価値が減ずるということなら分かります。道路拡幅工事と史跡保存とを秤に掛けて、どちらを優先するのか、両立の道はないのか、妥協点をどのあたりにするのか、関係者間で十分話し合うことが大切です。強引に事が運ばれたり、信頼関係を損なうような手法がとられたりすると、禍根を残します。

  *0001-12 Kiyoちゃん [栃木]   [12/10/22()-08:37]      
   ページが消えた!と思っていましたが、トップ・ページに戻して下さいましたね。
 先日は、保存問題に関するご意見、有難うございました。現在、もめているということは、充分話し合わなかったのかもしれませんね。あるいは、話し合っていたが、タイム・リミットで始めてしまったということも考えられます。アッ!そうそう確か大分前から交渉していたようですので、恐らく後者の例でしょうね。
 現在、衛生問題が発生している、あの雪印乳業の創業者である黒沢酉蔵氏の「私の履歴書」をKiyoちゃんのホームページに公開しました。是非、読んでくださいね。この記事は、雪印乳業の本社に黒沢氏の写真提供をお願いしておりましたら、小冊子を贈っていただきましたので、関係部分を転載したものです。黒沢氏と正造の交流が描かれていて、面白いですよ!

  *0001-13 ソフィー [石川]   [12/10/23(月)-11:48]      
  アクセスが込む時間帯は、掲示板を軽くするために1頁に掲載する量を少なくするように設定されているようです。

さっそくホームページを再訪しました。雪印乳業の創始者もなかなか立派な方であったということを例の事件の報道がきっかけで知りましたが、田中正造と交流があったとは驚きです。

なお、当方、雪印乳業の販売店から牛乳とヨーグルトを配達してもらっていますが、あの事件にはびっくりしました。とるのをやめようかと妻が心配して言いましたが、生産工場が違うし、こういう事件が発覚したあとは厳重な管理が行われるようになるだろうし、小売店も被害者なのだから継続購入してあげようということになりました。