無煙世界過去ログ

No.1 〜 No.13

金沢ひまわり平和研究室 無煙喫茶室 無煙酒房   無煙世界 セト研掲示版  無煙喫茶 ウエブ日記“無煙喫茶” 


目次



[1]

掲示板「無煙世界」を開設


投稿者名: ソフィー (ホームページ) 投稿日時: 2000年12月14日 19時52分
岡安さんのホームページ「考古学情報広場」の掲示板ソフトがなかなかよさそうなので、KMU歴史・人類学としては第三番目の掲示板を開設することにいたしました。「無煙喫茶室」も「無煙酒房」も訪問者、投稿者が少なく、独白が続いている現状では、いずれ一つに絞らないと効率的でないと思っておりますが、当面、使い心地を試すために併存させます。ご愛顧のほど、よろしくお願いいたします。

[2]

Re: 奉祝


投稿者名: 岡安光彦 (ホームページ) 投稿日時: 2000年12月14日 23時03分
三千世界の無煙をめざし、主と朝寝がしたみたい。(平口さんとじゃないよ)
ではまた。

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戦争の起源


投稿者名: ソフィー (ホームページ) 投稿日時: 2000年12月15日 18時07分
戦争の起源については、無煙喫茶室(過去ログ)で話題提供したことがあります。その続きをここで展開できればと思います。

はっちゃんからは、「小林氏が縄文時代に戦争があったと言っていることは初めて知りました」という返事がありました。この種の問題を考えるには、国立歴史民俗博物館『人類にとって戦いとは 1 戦いの進化と国家の生成』(東洋書林,1999)が大いに参考になります。この書では、小林説は第11回「大学と科学」公開シンポジウム組織委員会編『縄文と弥生』(クバプロ,1997)での発言として紹介されています。また、佐原眞「日本・世界の戦争の起源」は、結論として「狩猟採集民も殺し合うことがあり、とくに北アメリカ北西海岸の人びとの殺しあいは、戦争であった。しかし、農耕社会の成熟過程が本格的な戦争を生んだことは、大多数の研究者が世界各地に共通して認めていることである」と述べています。

[4]

竹久夢二と「浜辺の歌」


投稿者名: ソフィー (ホームページ) 投稿日時: 2000年12月16日 21時13分
「きまぐれ日記」で林孤渓作詩・成田為三作曲の「浜辺の歌」を話題にしましたが、この歌は一般に2番目までの歌詞がよく知られています。しかし、実際には3番目まで歌詞があります。

3.はやたちまち 波を吹き
  赤裳のすそぞ ぬれもせじ
  やみし我は すべていえて
  浜辺の真砂 まなごいまは

「浜辺の歌」の楽譜表紙を竹久夢二が描いているのですが、そこに描かれた女性の下着はまさに赤裳(あかも)です。金沢湯涌夢二館には夢二をめぐる三人の女性が紹介されています。そのうちの一人、笠井彦及は若くして肺結核でなくなりました。展示館を見学した際、「やみし我はすべていえて」という歌詞と彦及さんの姿とが私には重なり合って見えました。

最近、インターネットの掲示板などでガサツな言葉のやりとりに接することが多いのですが、夢二や「浜辺の歌」の世界はなんと情感に溢れ、美しいことでしょう!

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捕鯨と食の文化摩擦


投稿者名: ソフィー (ホームページ) 投稿日時: 2000年12月20日 12時25分
今年7月に担当した金沢美大の集中講義でも、11月に担当した放送大学石川センターの集中講義でも、最終時間のテーマは「捕鯨と食の文化摩擦」でした。たまたま別の目的で購入した中央公論2001年1月号に、村田良平氏による<「反捕鯨」アメリカに直言する>が掲載されていました。特に目新しい主張がなされているわけではありませんが、駐米大使経験者であり、現在青山学院大学国際政治学部教授である著者だけに、注目して読ませていただきました。

その「米国の良識を切望する」の章に、パナマ運河開通の際の逸話が紹介されています。かつて米国政府は、上院の承認が得られないという理由で、平等な通行料を要求する英国の抗議を受け付けなかったのですが、当時、幣原喜重郎が米国経験の豊富な英国のブライス大使にどうするつもりか尋ねたところ、「ほうっておく。歴史を調べてみるとアメリカという国は相手に抗議されて改めるということはしない国で、黙ってほうっておくと、自然に自分で考えて自分で改める国だ」と述べたというのです。この判断が正しいとすると、捕鯨問題における米国の理不尽さについては、言うべきことは直言したうえで、あとは「ほうっておけばよい」ということになりますね。

日本はどんな国でしょうか。ほうっておくと、何もしないというのも困りますし、何をしでかすか分からないというのでも困りますね。

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Re: カインとアベル


投稿者名: ソフィー (ホームページ) 投稿日時: 2000年12月30日 17時30分
農耕生活は、豊作ならば繁栄が保証されますが、不作になればてきめん飢餓の危険にさらされることになります。しかも、作物をねらう近隣集団に襲われる危険も覚悟しなければなりません。いきおい肥沃な土地や水利をめぐる争いも生じます。旧約聖書創世記に記されているカインとアベルの兄弟争いの物語には、古代における牧畜民と農耕民との対立抗争が反映しているようです。

「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せられた。」(中略)「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。」(中略)「主は言われた。何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる」(創世記4章2〜12節、新共同訳)。

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Re: 捕鯨と食の文化摩擦


投稿者名: ソフィー (ホームページ) 投稿日時: 2001年1月4日 17時02分
無煙喫茶室にKaiさんが「無縁世界」と題して投稿しておられますが、そこで指摘されている問題点を以下に要約します。

1.捕鯨・鯨食問題は、日本国内でも真剣に話し合われる場がない。
2.鯨食文化の歴史や地域性がきちんと理解されておらず、継承もされていない。
3.鯨食文化だけをクローズアップするのも問題である。
4.鯨食文化における海外の先住民と日本との相違点に注意が必要。たとえば、日本が先進国であり、クジラにのみ生存をかける状況ではないうえに、鯨肉が高価な値で売られていることに対する反感もある。
5.公海での捕鯨は、他国の賛同無しには継続は難しく、沿岸捕鯨とは別の問題であるから、多くの人々を説得できる理由がなければならない。

なお、Kaiさんが「無縁世界」と題したのは、日本人でも捕鯨・鯨食文化とは無縁と思っている人がけっこういるということを言いたかったからでしょう。

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戦争と医療


投稿者名: ソフィー (ホームページ) 投稿日時: 2001年1月18日 19時39分
福岡出張中に読み終えた本に莇昭三著『戦争と医療』(かもがわ出版,2000)があります。それによると、1938年に厚生省が誕生したきっかけは徴兵検査における壮丁(若者)の甲種合格率低下であり、戦争遂行のための兵力として青年の体力を向上させるためにいろいろな策を講じたけれども、甲種合格率は低下するばかりで、特に日中戦争を開始してから低下し、太平洋戦争に突入してからますます低下していったということです。国民の生活を犠牲にして体力が向上するはずがありません。ほんとうに体力を向上させようと思うなら、戦争をやめるのがもっとも近道といえましょう。

[10]

Re: 最後の1本


投稿者名: ソフィー (ホームページ) 投稿日時: 2001年1月31日 16時06分
太平洋戦争末期、私の5歳上の姉が風邪をこじらした(肺炎?)とき、ある病院で開業医が「これ1本しか残っていませんが、お嬢さんに」と言って注射を打ってくれたそうです。当時の体験話は「空襲」に書いてあります。

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Re: 捕鯨と動物福祉


投稿者名: ソフィー (ホームページ) 投稿日時: 2001年2月6日 18時51分
石川創氏の「人道的捕殺とは何か−捕鯨と動物福祉−」(鯨研通信,408:7-17,2000)は、文化人類学的にも興味深い。以下、一部抜粋して紹介させていただきます。

“野生動物の狩猟が生活習慣として根付いている人々(中略)においては、動物の捕殺と動物福祉の考えはまったく矛盾しないばかりか、「動物を殺すからには福祉の精神に基づくのが当然」との考え方がごく普通に存在しているように感じる。このような欧米的感覚から言えば、本来は動物福祉と捕鯨問題が両立しないことが異常なのであり、ノルウエーなどが大型狩猟動物の動物福祉の基準を鯨の捕殺の比較にするべきと主張することはまったく筋の通った話なのである。”

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Re: 捕鯨と動物福祉


投稿者名: 荻野みちる投稿日時: 2001年2月9日 22時50分
私もこの鯨研ニュースを読ませていただいて同感だと思っています。
捕鯨と動物福祉は両立することで、生き物を殺す以上は、
最善の方法を用いることに力を尽くすのは当然のことです。
また捕鯨問題の賛否を論ずることと捕鯨する場合に動物福祉を考えることとは別の問題です。いかなる動物でも人間が生きるために動物を殺すことになる場合に動物に対していかにすべきかは、人間として当然考えていかなければなりません。また動物福祉を論ずることと捕鯨イコール動物虐待のイメージは間違っています。
また生きたクジラの漂着を扱う場合にも救助が不可能であったり
人命に危険が及んだ場合には、苦渋の選択ではありますが最善の方法を用いて安楽死の道を選択する
ことを選ぶことと共通しています。
日本国内ではこの動物福祉を論ずる場がありませんが、むしろ展示標本のために捕鯨をする場合も同様にこの動物福祉を論じるべきでしょう。
欧米では積極的に漂着クジラを標本に用いています。
動物を殺すからには社会に受け入れられるような動物にたいしての配慮の精神を忘れてはならないと思います。

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鯨の文化と保護


投稿者名: ソフィー (ホームページ) 投稿日時: 2001年2月27日 20時22分
無煙喫茶室でも、almond-eyeさんが「鯨の文化と保護」と題して投稿されています。

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