役立たぬものは無駄か
最近、ある私大の学園問題研究会に出席していて耳慣れない言葉に出合った。「モンカショウ」―つまり、今まで文部省と言ってきたものが、行政改革のなかで文部科学省(モンカ省)となったことによるものらしい。行政改革を批判しようというのではない。時代の流れ、あるいは日本という国の思潮の流れの中で、今まで「文部」という概念の中に含まれていた理工系、科学系がいよいよ突出してきたことを意味するのであろう。
「バカの壁」を書いた養老孟司氏の時評集の中で読んだ話だが、国立大学学長会議の席で、ある理工科系出身の学長が「これからの国立大学に、人文系の学部があって何になるのですか」「哲学なんてあっても仕方がない。宗教もあっても無駄。文学は趣味だから大学で教える必要はない。云々」と言われたという。戦後日本は、社会の進歩に役立つもの以外は無駄なものとして疎外してきた。そして日本全体が、無思想化、無宗教化して来てしまった。宗教といっても、個人の利益や幸福、健康を追求する偽教の類が氾濫するだけである。
哲学・宗教から心棒得る
私は、終戦直後の四高で三年間青年期を過ごした。当時の金沢一中から入学した一番若いほうの生徒だったが、同級生には軍隊から復学した先輩や、海外からの引揚者、中には女房子供持ちの髭をはやしたおっさんまでいて、それこそ文部省のこれといった教育方針もない中で、先生方も何を教えていいのか悩まれたであろう。
主任教授は独文の伊藤武雄先生であり、個人的には英文の大沢衛先生にご厄介になった(初期の世界連邦運動活動者の中に両氏の名を見る)。朝日(秋山)英夫先生には独文のみでなく、終生、人間と文化とを教えていただいた。しかしその間、何を習い、何をどう学んだのかは明瞭に覚えていないし、文化乙類で学んだドイツ語に至っては、今そのドイツを旅行しても殆ど話せないのだから、「そら、何の役にも立たないではないか」と言われれば、その通りですと頭を下げざるを得ないが、あの無目的、混沌の時代状況下に、訳も分からずにトルストイを読み、ドストイフスキーを語り合い、ニーチェを論じ、幾多郎の「善の研究」を争って買いに行った四高生の一人であったことが、私の人間形成に無駄であったとは思わない。それどころか、それがなくなったら、ただ浮かれて生きているだけになりかねない大切な心棒をこの間にいただいたように思う。
自己を見失うと狼に
教えを持つということは、自己を照らす鏡をもつということではあるまいか。日本海海戦からちょうど百年。あの海戦は、海外からの植民地主義、侵略主義を食い止めんとする弱小国日本の羊のような軍隊が、狼のごとく襲いかかってくる大国の海軍を辛うじて打ち破った戦いであった。だから世界各国もこの戦いは評価したと思う。戦い終わって静まった日本海の海面を眺め、時の東郷平八郎は何を思ったであろうか。しかし、日本はその時から自己を失った。勝ったと思い誤った。列強に並んだと思い上がった。その時から日本は狼になった。
今、日本は中国、アジア諸国をはじめ、世界中から歴史認識を問われている。しかも、何を問われているのかすら理解できないでいる有様である。「汝自身を知れ」―これは、幼少のときに学んだギリシャ哲学の金言である。自己を見失うことがどんなに恐ろしいことか。自己を正義だと思い上がることが、どれほど危険なことであるか。私たちは先の戦争で、いやというほどそのことを学んだ筈であるのに。
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