賀川豊彦と世界連邦運動

小南 浩一 (北陸大学助教授)
  
世界連邦石川 32:1(2005.2.1)


世界連邦運動の父

1948(昭和23)年8月6日に創立された「世界連邦建設同盟」(現在の「世界連邦運動協会」)の初代会長は尾崎行雄であり、副会長は賀川豊彦(1888〜1960)であった。

賀川は、1909(明治42)年、21歳の時に、神戸の貧民窟(今日で言うスラム)に入り、貧しい人々のために生涯を捧げる決意をした。以後、労働・農民・生協運動など、弱い立場の人々のために幅広い社会運動を展開した。こうした活動によって彼の名は日本のみならず、世界にも聞こえていた。欧米では1930年代を「カガワ・ガンジー・シュバイツァー」三人の時代と呼んだという。

敗戦直後の賀川は、敗戦で打ちひしがれた日本人を勇気づけるべく精力的な活動を展開した。当時、彼は日本の首相候補に名が挙がるほど著名であり、多くの人々の期待を集めていた。戦後第1回の総選挙の際に実施されたアンケートで、期待する政治家として野坂参三に次いで尾崎と賀川の名が挙げられていたという。

敗戦直後の8月19日、松沢教会で、賀川はすでに世界連邦に関する説教をし、8月30日には、『読売報知新聞』に「マッカーサー総司令官に寄す」と題して、新生日本が世界国家として出発すべく、その決意を語っている。そして、9月27日には、「国際間の戦争の絶滅と恒久平和をはかる」目的で国際平和協会を設立し、「世界国家の創造を期す」と謳っている。さらに47年1月、賀川の主幹による機関誌『世界国家』が創刊された。

このように賀川は、戦後いちはやく日本における世界連邦運動に着手したのであった。世界連邦運動の父と称される所以である。しかし、賀川のこうした運動は、じつは戦前、1920・30年代の平和運動にその源があったのである。

戦前、すでに世界国家を唱える

キリスト者としての賀川は、1925年、タゴール、ガンジー、アインシュタインらとともに「徴兵制廃止の誓い」に署名し、国際連盟に提出したり、国際戦争反対者同盟(WRI)への入会など、世界的なスケールで平和運動を展開した。また、戦前すでに協同組合運動の第一人者であった賀川は、世界平和の経済的工作として、協同組合主義による協調貿易体制の構築を唱えた。それは経済的関係の密接な地域が「地帯経済会議」を開き、経済の相互依存を軸に協調による共同体へと導いていくという賀川独自の共同体構想と一体のものであった(それらは今日、EU=欧州連合=などに実現されている)。当時、賀川はすでに世界国家を構想していた。「…軍縮会議が成功し、協同組合貿易が出来、240位の異なった言葉の人種が一つになり、世界平和を基礎とする世界国家を作ればよいと思う。思い思いに国体は違っているが、貨幣、貿易、警察を統一し、搾取、略奪のない共済組合をつくることは、決して我々の夢ではないと思う」(『雲の柱』35年1月刊行)。このように、戦後の賀川による世界連邦運動の原点はすでに30年代の彼の平和構想のなかにあったのである。

今こそ国際協調の精神を

9・11以後の世界はアフガン戦争、イラク戦争を経て、民族主義・国家主義・単独主義・「力こそ正義」の武力主義に覆われている。1930年の排外的ナショナリズムを批判して、「日本は世界のために存在してこそ世界の日本たることが出来る」と主張した賀川の精神こそ、真のナショナリズムであり、国際主義の精神的基盤たりうるといえよう。