世界連邦運動協会副会長 加 藤 俊 作
世界連邦と国連改革(1) 言うまでもなく戦争は人災であって、天災ではない。すなわち、戦争は人間が引き起こす一つの社会現象であり、そこには必ず人為的な原因がある。たとえどれほど熱心に平和を祈願し、戦争反対を叫んでも、もし戦争の原因を追求し、それらを取り除く努力をしなければ戦争をこの地上から廃絶することはできない。このような極めて簡単な事実が案外理解されておらず、戦後60年余が経った今でも相変わらず戦争体験の語り継ぎなどが行われている。このようなことはそれ自体としては尊い行為であるが、肝心の戦争が何故起こるのか、どうしたらこの地上から戦争を無くすことが出来るのかといった議論はあまりみられない。 勿論平和を実現するための諸提案、例えば軍縮とか信頼醸成の努力とか非核武装地帯の創設といったことが行われているのは事実である。しかし、それらの努力が世界の恒久平和の実現という究極の目標とどのように関わっているかは必ずしも明確にされていない。ここに世界連邦主義者といわゆる平和運動家との違いがあるといえよう。
しかし、日本の場合何といっても世連運動を引き起こした最大の原因は1945年広島、長崎に投下された原爆であり、さらには1947年に発布された「日本国憲法」とくにその第九条で「戦争放棄」を規定したことであった。前者はもし今度戦争が起きれば、それは疑いもなく核戦争であり、人類は生き残れないという危機感であり、後者はもし「戦争放棄」を規定した憲法第九条を文字通り維持するためには、すべての国が同様に軍備を全廃し、それに代わって世界政府が世界警察を持ち、軍備を持たない世界の治安の維持にあたる法治体制を作らなければそれは実現できないという確信であった。日本以外の国々が相変わらず軍備をもったままで日本だけが非武装でいるということでは多くの国民は不安を感じないわけにはいかないであろう。1997年チャールズ・オーバビー博士(憲法九条の会の創立者)が「地球憲法第九条」(邦訳,国弘正雄)という本を出版された趣旨もそこにあった。すなわち、憲法第九条を文字通り維持し、真に戦争のない世界を実現するためにも、暴力に代えて法が支配する世界連邦が必要なのである。 (世界連邦Newsletter,第563号より) 世界連邦と国連改革(2) 大体主権国家には固有の権利として自衛権が認められている。しかし、国内社会においては市民にも自衛権,すなわち、正当防衛権がみとめられているが、だからといってそのための武装が認められているわけではない(米国はいまだに銃社会であるが、その弊害については最近上映されたマイケル・ムア監督の「ボーリング・フォー・コロンバイン」参照)。 それでは何故国家には自衛のための軍備の保有が認められているのか。それは現在の世界社会には国家に代わってその国の安全を保障する体制が成立しておらず、そのために国家が自ら軍備をもって自国の安全を計らなければならないという現状があるからである。しかし、現在の世界に自国以外に安全を計る機関が全く無いわけではない。すなわち、それが国連の「集団安全保障」制度である。この制度は「国連の加盟国のうちある一国(A)が他の加盟国(B)を侵略した場合、その他のすべての加盟国はあたかも自国が侵略を受けたとみなして侵略を受けた(B)国を助け、共同して(A)国による侵略を排除することを予め約束することによってそれぞれ自国の安全を保障しようとする制度である。もしこの制度が文字通り実行されれば、どの国も侵略しても勝ち目がないから侵略を控え、その結果いずれの国も自国の安全が保障されることになる。 しかし、国連憲章はまだ第二次大戦が進行中に作られた関係からこの制度で中核的な役割を果たす国連軍として安保理事会の五常任理事国の軍隊が予定されていたが、戦後の冷戦の結果憲章の規定する国連軍は編成されず、冷戦終結後の1990年8月イラクがクウエートに侵略した時ソ連はこの機会に憲章の規定する国連軍を編成することを提案したが、これが出来ると作戦遂行に当たって他の常任理事国と協議することが義務ずけられることになり、これら諸国に拘束されることを嫌ったアメリカはこれを拒否し、結局米軍を主体とする多国籍軍がイラクの侵略排除に当たった。そして事実多国籍軍(29ヶ国が兵力を派遣し、日本は140億ドルを拠出した)の力でイラク軍はクウェートから追放され、国連決議は達成された訳だが、ここに第二次大戦直後コード・メイヤーが著書『平和か無政府状態か』で指摘した現在の国連の「集団安全保障」制度のもつ問題点が浮き彫りにされた。 すなわち、この制度のもとでは、国連は「平和を守るために戦争をする」ことになる。今回の多国籍軍は正規の国連軍ではなかったが、その行為は国連憲章第42条に基づく合法的な強制措置としての行為であり、いわゆる国対国の「戦争」ではなかった。それにも拘わらず誰一人その点を強調する者はおらず、新聞、テレビなどをはじめ皆これを「湾岸戦争」とよび、しかもこれは国連の勝利であったが、あたかもアメリカが戦勝国であったかのように報道された。当時私はアメリカにいたが、ニューヨークのブロードウェイで大規模な凱旋パレードが行われ、家々には星条旗が飾られ、国連旗を飾る家は皆無であった。 このように国連が「平和を守るために」戦争をやり、それが合法化されている限り、戦争がこの地上から無くなるはずはない。もし、本当にこの地上から戦争を無くすためには、国家の軍備保有を禁じ、国連だけが警察軍をもつことである。もし国家が軍備を持たなければ、国連警察の規模もさほど大きい必要はないであろう。これこそが長年世界連邦主義者が主張してきたことである。1992年1月当時のガリ国連事務総長は「平和の課題」(Agenda For Peace)という報告書を安保理事会に提出、そのなかで「国連平和執行部隊」の創設を提唱、それはソマリアに派遣されたが、結局同国の軍隊との衝突になり、撤退を余儀なくされたが、これも国家に軍隊の保有を認めたままでこのような部隊を派遣すれば中立公正であるべき国連が自ら戦争をすることになり、ガリ事務総長も結局この提案の失敗を認め、この構想は撤回された。 以上二回にわたって現在の主権国家体制と国連憲章の問題点の幾つかについて述べたが、去る2001年9月11日のニューヨークの貿易センターおよびワシントンのペンタゴン襲撃に象徴されるテロリストの台頭、またそれに伴う2003年3月20日アメリカのブッシュ大統領が行ったイラク攻撃、さらには民間戦争請負会社の増大など、国連発足当時には全く想像されなかった新たな要因を国連改革を論じるに当たってどのように考えるべきかははなはだ難しい問題である。しかし、これらの問題を現在の主権国家体制の枠組みで解決することの困難性はますます明らかになっている。当面個人の犯罪を対象とした「国際刑事裁判所」の強化こそ急務であろう。 (世界連邦Newsletter,第565号より) 世界連邦と国連改革(3) これまで2回にわたって現在の国連憲章のもとでは戦争を廃絶することは出来ず、またもし次に戦争が起こればそれは核戦争に他ならず、それは人類の生存を脅やかすとの懸念から、究極的には世界法秩序を確立し、世界連邦を実現するほかはないとの確信から我々の世界連邦運動は始まったことを述べた。しかし、世界連邦あるいは世界国家という思想ないし構想は歴史的には古く、西欧では14世紀の初頭に、詩聖といわれたダンテ(Dante Alighieri)が『帝政論』で、唯一の君主による世界国家論を説いたのをはじめ、少なからざる人物が同様の構想を提唱した。ただし、これらの人々の説いた「世界」はその多くは今日のヨーロッパであった。 日本においても例えば、佐藤信淵の『混同秘策』、小野梓の『救民論』、植木枝盛の『無上政法論』、福沢諭吉の『立国は私なり』、中江兆民の『三酔人経論問答』など同様の思想の系譜をたどることが出来る。しかし、日本をはじめ世界で世界連邦の思想が具体的な運動として開始されたのは、第二次大戦終結後である。特に同大戦末期人類史上初めて原子爆弾が使用されたことはこの運動に大きな影響を与えた。そのことは日本の「世界連邦建設同盟」の設立が広島原爆投下満三周年の1948年(昭和23)8月6日であったことがよく示している。 国連憲章が調印されたのは1945年6月25日で、まだ原爆投下以前であり、従って憲章には原爆に関する規定はなく、また国連が大戦の渦中で作られたため、軍縮に関する規定はただの一条(第26条)しかない。従って国連は発足時すでに一部の有識者から時代遅れの機構と批判された。しかし、国連憲章はそれまでの「無差別戦争論」を否定し、戦争の合法性を「自衛権に基づく戦争」と安保理事会の決定に基づく「強制措置」として行われる実力行使に限定し、「戦争の違法化」を大きく前進させた。ただここで見落とせないことは、これまで国際法に全く見られなかった「集団的自衛権」なる新概念が憲章に導入されたことである。 大体、国連憲章のたたき台として米英ソ中4大国の代表が作成し、1944年10月7日に公表されたいわゆる「ダンバートン・オークス提案」には自衛権の規定はなかった。ところが、将来国連創設会議に招かれることがきまっていた米州諸国の賛成を必要としていた米国は同提案の公表前にそれを米州諸国に伝え、1945年2月ヤルタ会談終了後アメリカのステティニアス国務長官は直接メキシコ・シティーで開かれていた米州会議に出席した。彼の第一目的は来るべきサンフランシスコ会議で提案される世界憲章を会議において支持するための統一戦線を達成することであった。 この会議で特記すべきことは、この会議の過程で初めて「集団的自衛権」というそれまで国際法に見られなかった新概念が提起されたことである。そもそも自衛権とは自国が他国から侵略されたとき行使することが出来る権利である。しかし、集団的自衛権とは自国の同盟国が侵略されると、たとえ自国が直接侵略されなくても自国が侵略されたと看做して戦争を開始できることを意味している。特に問題なのは国連憲章には、例えば「自衛権」とか国連加盟の条件として「平和愛好国でなければならない」と規定されているが、(憲章第4条)それらの解釈条項がなく(憲章第96条を別にして)、ある国が「自衛権」を恣意的に解釈して戦争を開始した場合、同盟国も集団的自衛の立場から自国が侵略されなくても戦争を開始することになり、その結果『戦争の違法化』を著しく後退させる結果になった。 『集団的自衛権』なる新しい概念が提案された時、会議に参加していた代表からも「自国が侵略されていないのにどうして自衛権の発動が許されるのか」といった議論や、憲章第51条に「個別的又は集団的自衛の固有の権利」とうたわれた時にも『集団的自衛権』を固有の(inherent)権利とすることに疑義がだされたが、文言上現行のような規定になったのである。将来もし憲法第9条が改正され、集団的自衛権が認められるならば、日本が攻撃されなくても戦争に巻き込まれる可能性がうまれることを認識する必要がある。 現在の国連憲章は前文で「大小国家の同権」をうたいながら第二次大戦の5主要連合国だけが拒否権を持ち、しかもその適用範囲も憲章の改正だけでなく、事務総長の選任にまで及び、これでは事務総長も大国の意に副わない国連の改革を実現したくても不可能である。それでは我々世連運動者はこのような厳しい現実のなかで如何にして我々の目指す国連改革を実現できるのか。これが次に論ずべき課題である。 (世界連邦Newsletter,第566号より) 世界連邦と国連改革(4) 国連は2005年10月に成立60周年を迎えた。その間に世界の情勢は大きく変わったが、それにもかかわらず、国連憲章は安保理事会の非常任理事国と経済社会理事会の理事国の増員以外には何一つ改正されずに今日にいたっている。もちろん、例えば1950年のアメリカ提案による「平和のための統合」決議に基づく国連緊急特別総会の創設や1956年のスエズ動乱を契機に当時の国連事務総長ダグ・ハマーショルドの提案による「国連平和維持活動」いわゆるPKOの創設といった憲章の本質にかかわる事実上の改正(de facto revision)もみられたが、憲章それ自体には何ら手が加えられることはなかった。その最大の理由は憲章の改正について非常に厳しい規定 (第108条,第109条)があるためである。 前述のように憲章の改正については安保理事会の5大国(米英露仏中)だけが常任理事国として拒否権が認められており、加盟国(191カ国)の大多数がある改正案に賛成しても5大国の一国が反対すればその改正案は否決されてしまう。1945年の国連創設会議においてこの問題が出された時参加国から激しい反対が噴出したが、これら5大国は譲らず、もしこの権利が認められないならば、この機構に参加しないとまでいい、結局他の参加国もやむを得ずこれを認めた。但し交換条件として憲章第109条3項(この憲章の効力発生後の総会の第十回年次会期までに全体会議が開催されなかった場合には、これを召集する提案を総会の第十回年次会期の議事日程に加えなければならず、全体会議は、総会の構成国の過半数及び安全保障理事会の7理事国の投票によって決定されたときに開催しなければならない)が規定された。 当時の世界の世界連邦(以下世連))運動者はこの規定を憲章改正の好機ととらえ、「1955年こそ決断の年」との合言葉をかかげてそのための準備をした。しかし、1955年、この問題は総会の議題にはなったが、朝鮮戦争が終結して世界が一時的に安定に向かっている時に、国連憲章の改正問題を総会で取り上げ、そのための全体会議を開けば、かえってその安定を乱すおそれがあるとの理由で棚上げされ、その後全体会議は開かれることなく今日にいたっている。 1955年の総会で憲章を改正し、一挙に世界連邦政府の実現を期待して運動をしてきた多くの世連運動者の失望は大きく、それは運動に少なからざる打撃を与えた(この問題については、田中正明著「世界連邦―その思想と運動」平凡社、1974年、の「憲章改正ついに成らず」pp.226-231参照)。この苦い経験から世連運動はこれまでの「機構主義的アプローチ」から「機能主義的アプローチ」へと軸足をシフトしていく。翌年の1956年イギリスのライム・ホールで開かれた第7回世界大会で当時の事務総長ラルフ・ロンバルデは報告演説のなかで次のように述べている。すこし長いが、引用する。 「・・・さて、われわれは第三期を迎えた。それは今や成人となって、社会的責任を自覚し、世界の動きのなかで、積極的な役割を果たさなければならない。それは思想的、政治的、経済的に分裂している世界を一つにすることがいかに困難なことであるかを、しっかりと頭に入れたうえで、ナショナリズム、コロニアリズム、国家エゴイズム、その他もろもろの偏見や問題と取り組まなければならない。これらの障害を考えるならば、これからのWAWF(注、世界連邦世界協会)の仕事は、革命的なものではなく、漸進的なものであり、テーブルを叩いて世界政府を叫ぶことではなく、現在の主権国家や国際組織という枠のなかで、しだいに国家主権の制限と、いっそう緊密な国家相互の協力関係をつくり出すような、小さな、しかも大事な仕事を積み重ねて行くことであると思われる。いいかえれば、現実政治と取り組んでいる人びとを肯かせ、協力をうるために、われわれが現に当面している諸問題について、深い関心をもたしめるようにすることである。“いつの間にかできあがる世界政府”−多くの人が気づかない間に、世の中のことが世界連邦的方向にしだいに成長して、否応なく現実の問題となってゆく、このために力を貸すのがわれわれの運動である一そのような機能主義的なアプローチを軸に、政治、経済、社会、文化、組織のすべての面で、一歩でも接近する方法を考え、実践してゆこう。」(前掲書,p.236) ここには「人類の破滅か世界連邦か」とか「今すぐ世界連邦を」といった運動初期にみられた気負いや絶叫はみられないが、決して国連改革を断念したわけではなかった。世連運動は‘55年の経験を教訓としてより柔軟で幅の広い運動を展開していくことになる。 (世界連邦Newsletter,第568号より) 世界連邦と国連改革(5) 1955年の苦い経験をとおして国連改革、特に国連憲章の改正がいかに困難であるかを知らされ、世連運動は前回書いたように運動の軸足を「国連を改革して世界政府へ」というこれまでの「機構主義的アプローチ」から方針をより「機能主義的なアプローチ」へと移してゆくことになったが、たとえ憲章の改正が困難であろうと常に世界連邦のあり方を広く一般大衆に示し、国家主義的な人びとの意識を地球市民としての自覚を持つ者へと変革してゆかなければ世界連邦は実現するものではない。そこで1955年以降においてもWAWF(WFM)は世界大会を開催するたびに世界情勢の変化に対応した国連改革案を採択してきた。 特にWAWFは1975年6月および1985年4月に包括的な国連の改革案を提案している。前者は当時WAWFの国連代表であったドナルド・キースを中心に纏めたもので、『前文』、『憲章改正を要する提案』、『憲章改正を要しない提案』、『憲章改正が望ましい提案』の4部からなり、さらにそれぞれについて『憲章改正を要する提案』で、「加盟」、「紛争の平和的解決」、「国際司法裁判所」、「人権」、「経済社会理事会の強化」、また『憲章改正を要しない提案』については「国連開発計画」、「世界環境機関」、「海洋管理制度」、「国際災害救援」、『憲章改正が望ましい提案』では「平和維持」、「安保理事会の構成」、「安保理事会の表決」、「総会の表決権」、「国連財政」、「国連軍縮機関」について具体的に提案している(世界連邦新聞,1975年6月1日号)。さらに、前述のように1985年4月にWAWFは新たな『国連改革提案』を出しているが(世界連邦新聞,1985年4月1日号)、前者の方が具体的で一般読者には説得力があると思われる。 さらに世界大会においてそのつど限定的とはいえ国連の改革について決議をしている。例えば、オタワ大会[1970年]では[安保理事会]の改革について「準常任理事国という新しいクラスをつくり、世界の各地域ごとに回りもちの議席を追加し、それら準常任理事国が回りもちで議席につくこと。安保理事会の常任理事国を追加し、その場合、新しい常任理事国には全会一致の必要条件(拒否権)は与えない。」とし、また、ブリュッセル大会[1972年]では、かなり包括的な「国際連合改革提案」を採択している(『世界連邦運動55年のあゆみ』,世界連邦運動協会発行,pp.156-159参照)。東京大会[1980年]では、「国連システムの改革」と題してかなり広範な国連改革案を採択している(前掲書,pp.177-179)。フィラデルフィア大会[1987年]では「国連強化のためのWAWF政策声明」(前掲書,pp.188-189)を、その後の世界大会においても「国連改革」に関連した決議をしてきている。 われわれは既に充分なほどのわれわれの「国連改革案」をもっている。しかし、問題は国連が主権国家の連合体であり、それをどのように改革するかの主導権は加盟国政府にあると言う事実である。現在「国連改革」、特に「安保理事会の改革」が問題になっているが、残念ながらそこで展開されているのは、少数の大国のエゴの駆け引きであり、われわれがこれまで積み上げてきた「国連改革案」とはほど遠いものである。 ただ、昨年12月20日国連総会と安保理事会は紛争後の国の復興を支える常設の「平和構築委員会」を新設する決議案をそれぞれ採択した。これは同年9月の特別首脳会議で合意された国連改革案の一つである。国連はこれまで紛争の予防や解決に力を注ぎ、平和維持部隊なども派遣してきたが、部隊が去った後も平和づくりを担う組織はなかった。平和構築委員会は、紛争が解決した後の国家を対象に、政府や社会の再建を進め、混乱への逆戻りを防ぐことをめざすもので、アナン事務総長らも「歴史的だ」と評価している。このように現在の国連でも憲章の改正なしで有意義な改革は可能である。WAWF(WFM)も長年にわたってEUの「欧州議会」に準ずるような「議員総会」または「人民総会」を現在の「総会」のもとに創設することを主張しているが、このような改革も憲章を改正しなくても不可能ではない(憲章第3章7条2項)。 従って世界連邦運動者としては、たえずわれわれの目指す世界連邦の青図を示しながら、同時に出来ることから実行してゆくことではなかろうか。 (世界連邦Newsletter,第569号より) 世界連邦からみた国連とアメリカ 前号で世界連邦運動の国連改革案について述べたが、今回は世界連邦の立場から国連と現代のアメリカとの関係を考察してみたい。この問題については既に最上敏樹ICU教授が『国連とアメリカ』(岩波新書)のなかで詳しく論じておられるが、ここでは米国防総省が今年2月4日に発表した「4年ごとの国防政策見直し」(Quadrennial Defense Review-QDR)を拠りどころに論ずることにする。同報告書は米国防総省の中長期的戦略文書で、兵力の構成など米軍全体のあり方について、約20年後を視野に入れた青写真として、法律で4年ごとの議会への提出が定められているもので97年と01年に続く今回で3回目のものである。しかし、今回の報告書は過去2回のそれとは、基本的に違う内容のものである。すなわち、これまでの報告書は専ら「国家対国家」の対立が軸だったが、今回の報告書は「対テロ」に主眼が置かれ、それは冷戦並みの労力と時間を要する「長期戦争」と位置づけ、従来通りの戦力では十分に対応できない「非正規」な分野に軍事力の比重を移すことをうたっている点にある。具体的には国際テロ組織による攻撃などによる混乱への備えの必要性を踏まえ、世界全体で11群を配置する方針の空母攻撃群のうち半数以上の6群を太平洋に置き、潜水艦も6割の隻数を太平洋に集中させる。経済活動や通商ルートとして太平洋地域の重要性が高まっていることが背景にある。それだけではない。この報告書は同盟国としての日本を高く評価し、この政策の実施に当たり日本の協力を期待している。現在日本で問題になっている米軍の再編もその一環に他ならない。 しかし、ここで問題なのは、一体米国はいつ世界の警察官になったのかである。言うまでもなくアメリカは国連の一加盟国であり、国連憲章に定めた義務を受諾し、かつそれを履行する能力と意思が求められている。(憲章第4条)国連憲章は第42条、43条で「国連軍」を規定している。もともとこの規定は第2次大戦時連合国の敵であった日独伊枢軸国の軍国主義的復活による再侵略に対応するものとして構想されたものであり、それは東西冷戦により、機能麻痺に陥ったが、1989年の冷戦終結により、今や「国対国」の戦争は予想されず、そこで残された脅威としてテロが問題とされているが、テロ組織は国家ではない。それならば、憲章を生かして5常任理事国の軍隊を中心として正規の国連軍を編成し、それがテロに対応するべきであろう。しかもテロに対応するのに果たして空母攻撃群や潜水艦群などが役立つであろうか。むしろ大国が利益のために兵器を売り、特に小火器(small arms)やウランや化学兵器などがテロ組織の手に渡った場合、国家の軍備などでそれに対応することは不可能である。しかも、米国海軍は今年6月から8月にかけて、太平洋地域で空母4隻を参加させて、3回の大規模演習を実施する方針を明らかにしている。憲章の義務を受諾している国連の一加盟国がこのように「自衛」の名のもとに安保理事会にも諮らず、世界を我が物のように行動していることに国連の事務総長をはじめ他の190の加盟国がこれを黙認していることは理解に苦しむところである。 われわれ世界連邦運動者はかねてより国家の軍備を廃絶し、それに代えて「世界法」が支配する新しい世界秩序を作ることを主張している。今や他国を公然と軍事的攻撃するであろう大国は米国以外に考えられない。米国が仮想敵としてテロを挙げざるを得ないことがそのことを証明している。軍備増強の理由に「北朝鮮の脅威」を挙げるものがいるが、むしろ「北朝鮮」が核兵器や弾道ミサイルにこだわるのは、同国がイラクのようにアメリカの無警告攻撃を恐れるからであろう。確かに現在の「北朝鮮」が問題国家であることは明らかである。しかし、同国の持つ問題は、国際刑事裁判所(ICC)を強化することによって法的に解決するべきであろう。 ICC条約は、ジェノサイド(集団虐殺)の罪、人道に対する罪、戦争犯罪、侵略の罪の4類型を「国際社会全体の関心の対象となっている最も重大な犯罪」と位置づけ、これらの犯罪については国境を越えて捜査し、犯罪の責任者、及び実行者を裁く権限を持つ。また同条約は「人道に対する罪」の具体的な行為として11の罪を列挙しているが、その一つに「強制失踪」があり、これは未だに未解決の「拉致」の態様に完全に適合する。条約によれば、こうした犯罪が加盟国で起きた場合、仮に容疑者のいる国が非加盟国でも、ICCにはその容疑者を訴追し、裁判にかける権限が与えられている。「対テロ」の問題こそアメリカではなく国連が中心になって対処すべき問題であろう。 (世界連邦Newsletter,第570号より) 世界連邦と国連改革(6) 国連総会は3月15日、昨年3月アナン国連事務総長が提案し、同年9月の国連本部での世界首脳サミットが承認した国連改革案の主要な柱の一つであった「人権理事会」を創設する決議案を賛成170、反対4、棄権3で採択した。現行の国連人権委員会を衣替えし、常設理事会として広く人権問題に対応するのが目的である。米国はもっと強力な組織を求めて反対票を投じたが、同日の総会で「理事会の強化のため、他の加盟国と協力する」と表明、創設後の人権理事会には積極的に関与する姿勢を示した。日本は決議案に賛成票を投じた。反対国は米国のほかにイスラエルとマーシャル諸島、パラオ。棄権はイラン、ベネズエラ、ベラルーシの3か国。北朝鮮など7カ国は投票に参加しなかった。 同決議案に反対投票を投ずるに当たってボルトン米国連大使は人権侵害国として「スーダン、キューバ,イラン、ジンバブエ、ベラルーシ、ミヤンマー」と国名をあげ、暗にこれらの国が同理事会の理事に選ばれることを牽制した。 人権理事会の骨子は次の通りである。 (1) 総会の下部機関として創設する。 (2) 深刻かつ組織的なものを含む人権侵害に対処し、勧告を行う。 (3) 47カ国で構成する。 (4) 総会構成国の過半数〔現在96か国〕の支持を要件に、1カ国ずつ秘密投票で理事国を選出する。 (5) アジアとアフリカからそれぞれ13、中南米から8、西欧とその他から7、東欧から6カ国と地域グループごとに配分する。 (6) 任期は3年、連続して3選はできない。 (7) 理事国に深刻かつ組織的な人権侵害があった場合、総会での投票国の3分2以上の賛成で資格を停止できる。 今回「人権理事会」の創設に伴って3月27日廃止宣言された「人権委員会」が1945年の国連創設会議で設置が決まるまでにはNGOの大きな努力があった。(拙著「国際連合成立史」有信堂p.107参照)もしこの時に同委員会が成立していなかったならば、今回の「人権理事会」の創設もなかったかもしれない。 ところで、世連運動者は「人権」の問題についてどのような態度を取ってきたであろうか。先ず1947年の第一回の世界大会で採択された「モントルー宣言」6原則の第3原則で「世界連邦政府の管轄内にあることがらについては、いかなる個人に対しても直接に世界法を適用すること。人権の保障と連邦の安全を犯すようなあらゆる試みに対する鎮圧」をあげ、1952年の「広島宣言」でも「人種的差別を撤廃し、基本的人権を確立する」と述べ、その後も機会あるごとに人権の確立について主張してきたが、ニューズ・レター569号で述べた1975年のWAWF(WFM)の『国連改革提案』の「憲章改正を要する提案」の中で「人権」の一項目を設け、次のように「人権理事会」の創設を主張している。 「現在、国連は人権問題を五つ以上の段階で取り扱っている。すなわち小委員会あるいは特別委員会、人権委員会、経済社会理事会、総会の第三委員会、そして最後に総会の全体会議である。国連はこれらの措置を統合し総会に対して直接報告するために新たに人権理事会を創設すべきである。この理事会は経済社会理事会と同じレベルにおかれ、経済社会理事会を人権に関する責任から解放し、経済的社会的開発について集中できるようにする。 国連は人権高等弁務官の新らたなポストを創設するという提案を実行に移すことが望ましい。現存あるいは計画中の人権地域裁判所を補完する人権世界裁判所の設置は研究に価する。この人権世界裁判所は欧州人権裁判所と類似した責任を持つことになるであろう」WFMは今から31年前に既に『人権理事会』の創設を提唱していたのである。 周知のように憲章第12章が規定している『信託統治理事会』がその役割を終え、事実上機能していない。従ってそれに代えて『人権理事会』ないし『環境理事会』の創設が以前から望まれていた。今回つくられた『人権理事会』は総会の下部機関であり、『信託統治理事会』に代わるものではないが、それは常設機関であり、『経済社会理事会』のもとで年間6週間しか開かれない「人権委員会」に比べれば大きな前進といえよう。しかし、この新設の理事会でこれまで人権委員会で大きな役割を果たしてきたNGOがどのような位置づけをされるのか、未だ明らかではない。人権を抑圧するのは権力者の側である。その意味で同理事会においてもNGOが果たすべき役割は大きい。 |