平口哲夫の文献リスト:東北日本の旧石器文化を語る会


第10回東北日本の旧石器文化を語る会 予稿集(1996)

平口哲夫 1996 北陸における旧石器研究の動向 1990-1996 第10回東北日本の旧石器文化を語る会予稿集 130-134

北陸における旧石器時代研究の動向 1990-1996

平口哲夫(金沢医科大学)
はじめに
 
北陸旧石器文化
研究会が近畿旧石器交流会との共催でシンポジウム『日本海地域における旧石器時代の東西交流―国府系・立野ヶ原系石器群をめぐる諸問題―』を開催したのは1986年11月のことであった。翌1987年8月には、石川県加賀市宮地向山遺跡の発掘調査に協力し、報告書の編集・執筆も担当した。さらに、1989年10月に開催された日本考古学協会富山大会では、シンポジウム『旧石器時代の石斧(斧形石器)をめぐって』の企画・運営に当たった。その後は、遺物見学や発掘現場見学などの例会を散発的にもつことはあっても、めだった組織的活動はしていない。

1996年度にはいり、石川県辰口町の能美丘陵東部に展開中の「いしかわサイエンスパーク」整備事業に関係して、石川県立埋蔵文化財センターが発掘調査した灯台笹下遺跡からナイフ形石器・掻器・石刃などからなる東山系石器群がまとまって出土した。筆者が現地を訪ねたのは11月14日のことであり、発掘調査はすでに最終段階にはいっていた。11月16日に記者発表、翌17日に地元民を対象とした現地説明会が開催されるということなので、急きょこれに合わせて北陸旧石器文化研究会メンバーに電話やファックスで現場見学の案内をすることにした。

灯台笹下遺跡の石器群は、北陸では久しぶりに出土した良好な旧石器資料であるだけでなく、石器群の系統から言っても「東北日本の旧石器文化を語る会」で話題提供するにふさわしい。そこで、発掘調査を担当した石川県立埋蔵文化財センター調査第三課長西野秀和氏に参加を勧めてみたところ、あいにく先約があるので参加することはできないけれども、現地説明会用に増刷した概報の残部を提供したいとのことであった。

今回の「語る会」では、「前・中期旧石器研究の現状」が第1部の共通課題となっている。北陸では確実に前・中期旧石器と断言できるような資料はまだ発見されていない。しかし、将来発見される可能性を念頭において考古学的研究の視野にいれておくほうがよいと考えるに値する事実がある。それは、筆者の自宅に近い、犀川上流金沢市大桑の大桑層最上部で1984年にゾウの指骨が1個発見され、さらに1991年にはゾウとシカの足跡が発見されたということである。日本の前期旧石器の年代が60万年前に遡ろうとしている現在、約 160〜80万年前と推定されている大桑層の最上部(または卯辰山層の最下部)で陸獣類の足跡が発見されたということに、筆者は、同じ層位から人類遺物も発見されるかもしれないという期待をいだいている。

以上のような予察も含めて、1990年代における北陸旧石器時代研究の動向を以下に紹介する。

1 大桑層出土のゾウ・シカ足跡と前期旧石器時代研究の可能性
 
大桑層についての研究は、ごく最近、北陸地質研究所報告No.5『金沢市周辺の大桑層と卯辰山層の研究』にまとめられ、詳しい研究史も掲載されている(柏野,1996)。これによれば、金沢市近辺産ゾウ化石についての学術報告は、地質学雑誌第6巻74号(1899)の「加賀戸室山産象歯の化石」が最初で、松本彦七郎氏も地質学雑誌第23巻(1916)「本邦哺乳類化石床表」という報文でこの象歯に言及しているが、産出地・産出層についての詳細は不明であった。ところが、1984年犀川大桑橋上流約 300mほどの中洲で小笠原憲四郎氏によって採集された獣骨化石は、高山利昭氏を介して大塚裕之氏の鑑定するところとなり、ステゴドン科アケボノゾウの左前肢第U指骨であろうと判定された。この指骨化石の産出層位については、大桑層の最上部、小笠原憲四郎氏が新期大桑動物群として区別した暖海性貝化石を多産する層準に相当すると考えられた。その産出層準の年代は、石灰質ナンノ化石基準面や地磁気層序によって、約80万年前(83〜73万年前)と推定されている。

海成層からのゾウ化石出土ということならば考古学的な関心の的とはならない。しかし、7年後の1991年に松浦信臣氏によって、ゾウ指骨の産出地点から数10m上流の犀川河床でゾウやシカの足跡(松浦,1996)が発見されたことにより、大桑層に対する考古学的な関心が筆者に生まれた。この足跡の産出層位は、先に発見されたゾウ指骨の場合と同じ層準に比定されている。この層準については、卯辰山層の基底直下にあるスコリア砂層よりも上位にあるということを根拠に、大桑層の最上部ではなく卯辰山層の最下部に相当するとみなす山本英喜氏の説がある。山本説に対して、このスコリア砂層は火山活動に結びつく鍵層ではなく、「スコリア」の正体が後背陸地に露出する中新世の黒壁火砕岩層の砕片に由来する黒色の粗粒砂細礫であるから、スコリア砂層を一種の時間面として捉えることは妥当でないという批判がある。この批判的見解によれば、ゾウなどの足跡が発見された層準は、大桑動物群が生息した浅海環境から、おそらくは海水準低下によって低湿地に移行し、その後再び海水準上昇によって暖流系の優勢な浅海が出現したと考えられる。大桑層最上部にせよ、卯辰山層最下部にせよ、そ の層準に低湿地化した面が含まれており、そこに陸獣類の足跡が残されていたということが考古学的にはなによりも重要である。

現在、大桑の化石産出地については、特に保護対策はとられていない。もし化石産出層から人類遺物が少しでも発見されるならば、その化石産出地は重要遺跡として注目をあび、文化財保護法の対象となるばかりでなく、考古学的な発掘調査の実施によって古生物学的な研究の発展も促されるであろう。

引用文献
柏野義夫,1996,「金沢周辺の大桑層と卯辰山層に関する研究史」,北陸地質研究所報告, 5:1-39.
松浦信臣,1996,「金沢地域の大桑層産脊椎動物化石」,北陸地質研究所報告,5:5-87.

2 後期旧石器時代〜縄文時代草創期遺跡の発掘調査と報告書
 
1)石川県輪島市宅田上野山遺跡(本田秀生・砂上正夫,1996,『宅田上野山遺跡』,輪島市教育委員会)

能登半島の北部に位置する輪島市宅田町上野台の標高20m付近に位置する。住宅団地造成道路拡幅工事関係の発掘調査で出土した遺物の整理段階で、旧石器時代遺物の可能性が高い石器類23点が注目をあびた。これらはすべて珪化凝灰岩製である(輝石安山岩製の石器1点とメノウ製の剥片1点は縄文時代遺物である可能性が高いとみなされている)。ナイフ形石器として報告された石器は、分厚い縦長剥片の先端部を斜め整形したもの(長さ5.1cm、幅2cm)と短形剥片の先端部を斜め整形したもの(現長2.5cm、幅1.9cm)、計2点である。短形剥片を素材とした錐形石器1点、分厚い横長剥片のごく一部を加工した削器1点がある。剥片は厚めの縦長剥片、小型の短形剥片、分厚い不定形な剥片からなる。石核が出土していないため、剥片生産技術の詳細はわからないが、打面調整を施さず、90度、180 度前後の頻繁な打面転位を行う工程を想定することができる。剥片生産技術やナイフ形石器の特徴は立野ヶ原系石器群の特徴の一部を示している。しかし、典型的な立野ヶ原系石器がメノウや鉄石英など種々の石材を用いているのに対し、宅田上野山の場合、石材選択が珪化凝灰岩に偏っている。能登半島の縄文時代遺跡から出土する剥片石器は、輝石安山岩や珪質岩が主体をなしていることが多い。

2)石川県志賀町赤住ナカノA遺跡(本田秀生,1990,「ナカノA遺跡の調査」,『赤住遺跡群』,79-145)

能登半島西海岸、いわゆる外浦の海岸線より約400m離れた、標高20〜40mの海岸段丘上に位置する。北陸電力志賀原子力発電所建設に伴う発掘調査。調査期間1987年6月16日〜10月29日、発掘面積2,400m2。T層表土(灰色砂質土)、U層暗黄褐色砂質土、Va層黄灰色砂質土、Vb層黄褐色砂質土、Wa層黄灰色砂質土、Wb層黄灰色粘質土、以下省略。縄文時代遺物は表土直下からU層上半部を中心に出土、旧石器時代遺物はU層下半部〜V層上部を中心に出土。土層断面投影では、AT火山灰層準の上下から旧石器が出土し、やや上位からの出土が多い傾向があるとはいえ、それをもって編年的位置づけをするのは困難である。V層上面までに6ブロックを把握、総数112点(接合前)を確認。ナイフ形石器6点(石刃先端に凹形に加工したものを含む)、削器1点、楔形石器1点、加工痕のある剥片3点(彫器の可能性あるもの2点を含む)、微細剥離痕のある剥片(石刃を含む)14点、剥片44点、砕片39点を数える。ナイフ形石器のうち比較的完成度の高いものには、石刃の打瘤部両側を基部整形し、先端部を斜め整形したもの(現長8cm、幅2.2cm)と、石刃の打面部から中ほどまでを両側整形したもの( 長さ10.8cm、幅2.7cm)の二つがあり、中型石刃の原形をあまり変えない整形方法に特色がある。小型の石刃または縦長剥片の先端を斜め整形しただけのナイフ形石器も2点ある。石材は、珪化凝灰岩が主体(9母岩)をなし、黒曜石と鉄石英(1点)も1母岩づつある。「打面の設定は単設、両設が想定できる」と報告されているが、石刃または石刃素材の石器には 180度転位の証拠は少ないようだ。

3)富山県上市町眼目新丸山遺跡(高慶 孝,1994,『富山県上市町丸山B・眼目新丸山遺跡』,上市町教育委員会)
 
北陸の旧石器時代遺跡としては最初の発見例である眼目新丸山遺跡の発掘調査が、町営テニスコート・一般地方道拡幅工事に関連して行われた。遺跡は、上市川が形成した河岸段丘の左岸、標高約90m付近に位置する。第1次調査(試掘調査)は1992年12月1日〜20日、第2次調査(本調査)は1993年5月20日〜8月12日に実施。調査面積は試掘調査 300m2、本調査500m2である。T層耕作土、U層黒褐色土、V層黒灰色土、W層黄灰色土(砂礫混入)、X層灰色土(砂岩層)、Y層黒灰色土、Z層黄色土。W層上面で縄文時代遺構が確認され、旧石器時代遺物はY層直下のZ層に集中している。ナイフ形石器、掻器、掻器−彫器、削器、石刃、剥片など73点が出土した。従来の東山石器群に特徴的な東山型ナイフ形石器と掻器の組み合わせだけでなく、石刃を素材とした削器や、掻器と彫器の複合石器が伴うことが明らかとなった。

4)石川県辰口町能美丘陵東遺跡群(松山和彦・滝川重徳,1993,「庄が屋敷D遺跡」,『能美丘陵東遺跡群T いしかわサイエンスパーク整備に係る埋蔵文化財発掘調査報告書』石川県立埋蔵文化財センター、西野秀和ほか,1996,『能美丘陵東遺跡群 いしかわサイエンスパーク整備に係る発掘調査5ヶ年の概要』,石川県立埋蔵文化財センター)
 
辰口町宮竹・大口・灯台笹・長滝地内にある灯台笹遺跡、灯台笹下遺跡、庄が屋敷C遺跡、宮竹うっしょやま遺跡など多数の遺跡を総称して能美丘陵東遺跡群とよぶ。能美丘陵東部、標高約110mの低位段丘上には、旧石器時代から縄文時代草創期にかけての遺物が散発的に出土する遺跡例がすでにいくつか知られている。灯台笹遺跡はその最初の発見例であるばかりでなく、1970年10月に行われた発掘調査は、旧石器時代遺跡の調査を意図していたという点で北陸最初の発掘例でもあった。1990年代にはいって、丘陵地の整備事業に関係して実施された現地踏査・試掘調査などによって該当期遺物の発見があいつぎ、広大な面積にわたる本格的な発掘調査の結果、ついに灯台笹下遺跡において東山系石器群に属する遺物の集中地点が発見されるに至ったのである。

庄が屋敷D遺跡では、立野ヶ原型ナイフ形石器1点、剥片18点、石核3点、計23点が出土している。石材は流紋岩を主体とし、珪質凝灰岩、凝灰岩、玉髄、メノウ、チャートもある。灯台笹下遺跡では掻器を中心にナイフ形石器や石刃などが50点以上、庄が谷屋敷C遺跡では掻器、石刃、槍先形尖頭器などが20点以上出土している。石材は頁岩ないし珪化凝灰岩を主体とし、黒曜石や輝石安山岩などもみられる。庄が屋敷C遺跡と宮竹うっしょやま遺跡では有舌尖頭器が単独出土し、庄が屋敷B遺跡では矢柄研磨器も発見されている。

5)石川県加賀市宮地向山遺跡(平口哲夫ほか,1990,『石川県加賀市宮地向山遺跡』,加賀市教育委員会)

加賀市北部の橋立丘陵、標高約30mの低丘陵南斜面に位置する。加賀市では最初に発見された旧石器時代遺跡であることから、1987年、実体把握のために発掘調査が行われた。発掘面積は 20m2である。T層表土(腐植質暗褐色土)、U層褐色粘質土、V層黄褐色砂質土、W層褐色砂質土、X層黄灰褐色砂質土。T層下部からU層上部にかけて、深度幅約20cmの範囲から石器類が出土した。掻器2点、斧形石器?1点、二次加工のある剥片2点、石核1点、剥片16点、砕片49点、計71点が出土している。なお、表採遺物に掻器1点と石刃2点がある。石材は玉髄が最も多く、珪質岩、珪化凝灰岩がこれに次ぎ、変質凝灰岩、凝灰岩、珪岩、真珠岩質岩、チャート、輝石安山岩、安山岩、流紋岩、石英、珪化木?もわずかながらある。本石器群の石刃技法には、両設打面・打面調整・打面再生のほか、稜形成による作業面調整も認められる。


6)富山県小矢部市臼谷岡ノ城北遺跡(山森伸正,1992,『富山県小矢部市臼谷岡ノ城北遺跡発掘調査概要』小矢部市埋蔵文化財調査報告書,34,小矢部市教育委員会)

小矢部川の支流、渋江川の上流に面する標高約70〜76mの左岸段丘上に位置する。土地総合整備事業に関連して1991年6月14日〜10月31日に発掘調査が実施された。発掘面積は約6,600m2である。T層表土(暗灰褐色)、U層黒色土、V層赤褐色土、W層黄灰色細砂、X層黄灰色砂、Y層黄色砂、Z層黄褐色粗砂、[層黄褐色砂礫。縄文時代草創期遺物は、V層〜Y層において砂層と互層をなすシルト層@〜Dのうち、W層下位のシルト層Bとその下の砂層(X層)上部を中心に出土した。2箇所の遺物集中地点から22,835点の石器類が出土したが、うち22,782点が剥片・砕片で占められている。有舌尖頭器6点、槍先形尖頭器19点、削器5点、石刃4点、叩石2点、石斧破片17点を数える。石器素材となるような剥片が少ないこと、石核が出土していないこと、槍先形尖頭器の整形が粗いことからそれが有舌尖頭器のブランクである可能性が高いこと、削器に分類した石器にも有舌尖頭器のブランクとみなせるものがあることから、別地点で有舌尖頭器の素材剥片が生産されて当遺跡に持ち込まれたものと考えられる。

おわりに

1990年代にはいって、後期旧石器時代から縄文草創期にかけての遺跡・遺物の発見・調査が北陸においてもゆるやかにではあるが進行していることを報告した。該期の遺物包含層が概して薄く、火山灰層に乏しいという、層位学的に不利な条件のもとでは、石器群の編年的位置を確定するのはなかなか困難である。しかし、火山灰層に乏しいという事実は、研究者には都合のわるいことでも、当時の人びとにとっては火山災害が少なかったということを意味しているのであり、そのような環境条件が石器群のあり方にどのように反映しているのかという視点で検討することもできるのではないかと思う。

今回、北陸と称しながら、福井県についての情報を把握する余裕がなかったことをお詫びする。ご協力いただいた西野秀和氏、西井龍儀氏、麻柄一志氏ならびに「東北日本の旧石器文化を語る会」事務局の渋谷孝雄氏に感謝申しあげる。

金沢ひまわり平和研究室 平口哲夫執筆の文献  管理者 平口哲夫