北陸における縄文時代の
動物遺体出土遺跡と水域環境

−上山田貝塚の立地分析を中心に−

平 口 哲 夫


<抜 粋>

2.上山田貝塚の立地

 上山田貝塚は石川県河北郡宇ノ気町上山田にある。河北潟北端から北東約2kmの所に海抜約20mの小丘があり、その東端部南斜面と北斜面に貝層が形成されている。丘陵上の平坦面に住居が営まれていたものと推定されているが、これまでのところ縄文時代の遺構としてはピット程度しか検出されていない(西野・平口,1979)。
 当遺跡から出土した縄文土器は、前期末の朝日下層から後期初の前田式にかけてであるが、貝層の形成が確認されているのは中期前葉後半の新崎式から中期中・後葉の上山田式、古府式、串田新式を経て前田式に至るまでの時期に限られる(小島,1979、高堀・平口,1979)。

 上山田貝塚期の古地理については、既刊の発掘調査報告書において一応の考察がなされている。しかし、同書における地質学的見解(藤,1979)と考古学的見解との間にはずれが生じている。前者によれば「縄文中期頃になると、現在の海水準と同じ位にまで海水面の高度は降下した。しかし、七窪・宇野気・森・狩鹿野・指江では、まだ一部海〜潟となり、その水域は現在の大根部〜粟崎間が現在のような砂丘の発達するところとなっておらなかったので、ここから内陸の水域とつながっていたようである。(中略)上山田貝塚から報告されている貝類の種類、殊に、これら貝類の棲息水域と底質とから判断すると、上山田貝塚が形成されつつあった当時は、現河北潟、当時の河北入江にかなり海水が入り込むような状況下、つまり砂丘による海と河北入江との間の隔絶化が未だ充分進んでいなかった時であった、ということをこれら貝類は示している。」

 これに対し、貝塚の魚・貝類組成や河北潟周辺の縄文時代遺跡分布から導き出した結論は、「潟西岸の内灘町大根布砂丘遺跡や潟口の無量寺金沢港遺跡における前期後葉後半土器片の採集は、そのころすでに古河北潟が潟の姿に近づきつつあったことを示唆する。しかも、その後の海退にともない、潟化がいっそう進行したはずであるから、貝塚が形成された中期には、もはや潟となっていたとみてよいであろう。本貝塚が主淡貝塚であることも以上の推定の一大根拠となる。ゆえに、オキアサリの採取場所は河北潟ではなく、それ以外の海に求めなくてはならない。おそらく貝塚に近い海岸部が当時はオキアサリの生息に適した条件を備えていたのであろう」というものであった(高堀・平口,1979)。

 上記の考古学的結論は、現在なお基本的に変更する必要がない。ところが、ほかならぬ考古学者にこのことが必ずしも十分理解されていないようで、依然として「上山田貝塚出土の貝類の種類から、貝塚形成当時の河北潟は、日本海とつながり入江状を呈していたらしい」(米澤,1980)と藤説を踏襲した記述が見られる。そこでまず、貝層形成時の水域環境について再論し、大方の理解を得ようと思う。

(1)河北潟沿岸の縄文時代遺跡

 河北潟の変遷、特に外形や広がりの変化をたどるには、沿岸の砂丘地や低地に分布する遺跡が大きな手掛かりとなる。潟西岸の砂丘地からは明治時代以来(宇野,1896)、点てんと縄文時代遺物が採集されてきた(図3)。残念ながらその精確な出土地点については、現在不明の遺跡がほとんどで、これらについては破線でおよその位置を示すにすぎない(石川県教委,1980)。

図 3

 潟(lagoon)とは、砂洲によって外海から隔てられた海岸の湖を意味するが、外海に口を開いているものから完全に遮断されたものまでを含む。この海への開口度が潟の成立を考える上で基本的であるから、潟口付近の遺跡がまず問題となる。大規模干拓事業(昭和38年度着手)前の河北潟は、大野川を通じてのみ日本海に口を開いていたが、その河口は元禄元年よりほど遠くない時代に掘削されたもので、それ以前はさらに西南方向に流路が延び犀川と合流して日本海に注いでいた(斎藤,1970)。犀川河口付近〜大野川河口付近の縄文時代遺跡としては金沢市畝田遺跡(25)、大野砂丘遺跡(22)、無量寺金沢港遺跡(21)があるが、前二者については時期が判明していない。無量寺金沢港遺跡は、金沢港造成工事の浚せつ土中から前期後葉の福浦上層式と中期中葉の古府式土器とが採集されたもので、精確な位置は不明である。もし、「粟崎ないし大野海岸から浚せつ船のポンプで運ばれた」(高堀、1979)とすると、前期後葉の時期にすでにこの辺まで砂洲が延びていたことになる。これより北に位置する内灘町粟崎砂丘遺跡(15)においても前期後半の羽状縄文土器片が採集されていること(高堀 ,1982)を合わせ考えると、砂丘ないし砂洲の発達は意外と早かったのではないか。犀川・大野川河口に近い沖積平野には、金沢市近岡遺跡(20)、寺中B遺跡(24)、普正寺番野遺跡(23)といった晩期の遺跡が分布しており、晩期にこの付近一帯が陸化していたことは確実であるが、もし無量寺金沢港遺跡の位置が大野・粟崎の海岸寄りではなく、土器採集地点のすぐ近くであるとすると、沖積の進行もまた意外と早かったということになる。

 潟西岸の内灘砂丘には、上山田貝塚(1)と時期的に重なる縄文時代遺跡が分布している。すなわち、北から宇ノ気町大崎クロガケ遺跡(10,中期中葉、後期中葉)、内灘町西荒屋砂丘遺跡(11,中期後葉、後期前葉)、大根布砂丘遺跡(13,中期後葉、後期前葉)、向粟崎砂丘遺跡(14,前期後葉、中期中葉)、金沢市粟崎砂丘遺跡(15,中期中葉、後期前葉)の5遺跡である(高堀,1982)。すなわち、上山田貝塚期には、砂丘は粟崎まで確実に伸びていたことになる。

 以上の遺跡の分布状況からして、河北潟は遅くとも中期中葉、より厳密には古府式期のころまでには成立しており、さらに古く遡る可能性さえ考えられる。潟東岸については、湾口部以外には古河北潟の広がりを知る手掛かりとなるような遺跡は、いまだ発見されていない。

図 5


 ところで、開口度に着目して古河北潟の変遷を5段階に分けてみたのが図5である。この図は藤1975の図を模式的に借用したものである。原図ではVが縄文中期、Wが縄文晩期として設定されているが、潟の外形のみを問題にした場合、中期のモデルとしてはVよりもさらにWに近い形状を設定したほうがよい。

(石川考古学研究会会誌,28:57-78,1985より抜粋・改変)

論文フォト 上山田貝塚


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