1945年生 (1)


1986年4月29日朝、ロバート・ピーター・ゲイル博士は、自宅でラジオから流れるチェルノブイリ原子炉事故のニュースを聞いた。当時カリフォルニア大学ロサンゼルス校医療センターで白血病患者の診断・治療に従事していたゲイル博士は、6日後、モスクワへ飛び、旧ソ連の医師たちとともに、放射能をあびた人々の治療にあたった(ゲイル&ハウザー『チェルノブイリ』岩波新書,1988)。

ゲイル博士は私と同じ1945年生まれ。この年の8月6日に広島、9日に長崎に原爆が投下され、両市は筆舌に尽くしがたい修羅場と化した。その一月ほど前の7月12日、私の生まれ故郷敦賀はB29の編隊に襲われ、市街中心部の約8割が焼失、家族が身を寄せていた母方の実家も灰燼に帰した。近・現代における文明と病気の関係を語る上で無視できない出来事がおきた1945年は、私の個人史の始まりでもある。


生命表』(厚生省)によれば昭和20年(1945)生まれは谷間をなし、0歳平均余命で男性23.9(女性37.5)、昭和10~11年の46.92(49.63)や昭和22年の50.06(53.96)よりも格段に低い。女優吉永小百合さん、作家池澤夏樹氏、元・衆議院議員桑原豊氏(石川県出身、高校3年のときの級友)、いずれも1945年生である。


『文芸春秋』2005年2月号に「われら敗戦の年生まれ」と題して、車谷長吉(作家)、櫻井よしこ(ジャーナリスト)、谷垣禎一(財務大臣)の3氏による鼎談が掲載されている。「1945年生まれの著名人」として111名のリストが付されているが、そのリストに掲載されている著名人のうち、私が氏名を見てすぐ顔を思い浮かべることができたのは、吉永小百合、池澤夏樹、櫻井よしこの3氏のほか、以下の方々である。

白川勝彦(元自治相)、岡本行夫(元首相補佐官、外交評論家)、田中直毅(21世紀政策研究所理事長)、大谷光真(浄土真宗本願寺派24代門主)、ピーコ(ファッションジャーナリスト)、小川和久(国際政治・軍事アナリスト)、おすぎ(映画評論家)、佐高信(評論家)、落合恵子(評論家)、黒鉄ヒロシ(漫画家)、永井豪(漫画家)、中村征夫(水中写真家)、青江三奈(歌手、故人)、阿木耀子(作詞家)、扇ひろ子(歌手)、尾崎紀世彦(歌手)、水前寺清子(歌手)、はしだのりひこ(歌手)、三沢あけみ、金井克子(モダンダンサー)、栗原小巻(女優)、タモリ(司会者、俳優)、波乃久里子(女優)、松島トモ子(女優)、松原智恵子(女優)、宮本信子(女優)、樋口久子(プロゴルファー)、室伏重信(陸上ハンマー投げ指導者)、以上29名。


1997年に来日した中国残留日本人孤児の中にも、推定1945年生まれの女性が一人。新聞報道によると、1945年8月ごろ、赤ん坊だった范さんは、旧三江省依蘭県の道端で保護されたとき、金色の布にくるまれており、中に「生年月日昭和20年4月13日」と書かれたメモが入っていたという。1990年6月、妹ではないかと訪ねてきてくれた日本人男性がいたが、自分が孤児であるということを当時知らなかったため、かたくなに拒否し、差し出された名刺も受け取らなかったそうだ。涙ながらに語りかけてきた「兄」、その5年後に養母から事実を打ち明けられた「妹」。お二人の再会を祈る。 


1997年初冬、高校の1学年先輩で1945年1月生まれのT氏から喪中の挨拶文がきた。この5月に亡くなられたご尊父とすでに先立たれていたご母堂にまつわる思い出が綴られている。これによると、お通夜のとき、満州引き揚げの際の話をしたところ、同席者から驚くべき話をはじめて聞かされたという。逃避行のさなか、赤ん坊のT氏は、食べものもなく、母乳も出ないのでコウリャンの研ぎ汁ばかり飲まされていたせいか、下痢ばかりしていたらしい。また、三つ年上のお兄さんも疲れて歩けなくなってしまった。どうにもならなくなって、このままではみんな死んでしまうと考えたご両親は、ついにT氏もお兄さんも捨てて行ってしまった(誰かに拾われることを期待したのであろう)。しかし、赤ん坊の泣き声が耳を離れず、木に縛りつけてきたお兄さんの「置いていかないで」という声がどこまでも追いかけてくるものだから、とうとう引き返し、捨てたままになっていたご本人を抱き上げ、またお兄さんも無理矢理ひっぱって連れて戻ったのだそうだ。生前、ご両親、特にお父さんが多くを語らなかったのも分かる気がする。高校教諭であるT氏は、「余りの残酷さに、母が哀れで、父も可愛そうでなりませんでした」、「再び教え子を戦場に送らないことを誓い、そのために努力することが、残された私たちの使命であり、亡き父たちへの供養であると思います」と述べている。


『アメリカ人の核意識―ヒロシマからスミソニアンまで―』(ミネルヴァ書房,1999)の著者、アラン・M・ウィンクラー氏(オハイオ州立マイアミ大学教授)は、1945年初めに生まれた。父親は、日本人捕虜の尋問や文書翻訳を任務とする語学将校をしていたことから、原爆による破壊の跡を目撃し、その経験を著者に伝えた。また、著者は、1950年代、核攻撃に備えた防空訓練、すなわち机の下にもぐるという「無益な」訓練をうけた。さらに、1967年から1969年まで平和部隊ボランティアとしてフィリピンで過ごしたが、帰国途上に日本旅行、広島と長崎の原爆記念館を見学して呆然としたという。「もぐって身を隠せ」は、日本の戦争末期の「竹槍訓練」と同程度に馬鹿げているが、そのような訓練を同世代のアメリカ人が体験していたということに、日米間の大きな違いを垣間見た思いがする。核戦争になれば日本も核攻撃にさらされる危険は十分にあったのに、それに備えた訓練を日本の小・中学校でしたという話は聞いたことがないばかりか、そのような訓練が必要だと思ったこともなかったからである。

金沢ひまわり平和研究室  1945年生(2) 筆者 平口哲夫