平口幸枝と女子美術専門学校


1909(明治42) 菊坂校舎
(『100th ANNIVERSARY JOSHIBI 女子美同窓会の歴史』2001より)


女子美術専門学校(女子美術大学)の沿革

女子美術大学「沿革」から抜粋、付加)
1900(明治33)10 私立女子美術学校設立の許可を受ける。
1901(明治34)4 本郷弓町(現文京区)の校舎において開校。
1908(明治41)10 火災のため弓町校舎焼失。
1909(明治42)7 本郷菊坂町に新校舎落成 弓町校舎より移転。
1917(大正6)2 財団法人私立女子美術学校に組織変更。
1919(大正8)9 私立女子美術学校を女子美術学校と改称。
1929(昭和4)6 専門学校に昇格、女子美術専門学校と改称。
1930(昭和5)4 平口幸枝、女子美術専門学校に入学。
1934(昭和9)3 平口幸枝、女子美術専門学校師範科日本画部を卒業。
1935(昭和10)1 女子美術専門学校が杉並区和田本町(現杉並区和田)に移転。
1945(昭和20)3 空襲により菊坂校舎全焼。
1949(昭和24)2 学制改革により女子美術大学発足、芸術学部に美術学科と服飾学科を設置。
1950(昭和25)3 財団法人女子美術大学を学校法人女子美術大学に組織変更、短期大学部を併設。
1956(昭和31)4 杉並校舎の一部焼失。
1962(昭和37)4 短期大学部を女子美術短期大学と改称。
1963(昭和38)4 芸術学部美術学科を絵画科・産業デザイン科・芸術学科に改組。
1990(平成2)4 芸術学部相模原校舎開校。
1994(平成6)4 大学院美術研究科(修士課程)を相模原校地に設置。
1996(平成8)4 大学院美術研究科(博士後期課程)を相模原校地に設置。
2000(平成12)10 創立100周年式典挙行。
2001(平成13)4 芸術学部に立体アート学科、メディアアート学科、ファッション造形学科を設置。女子美術短期大学を女子美術大学短期大学部と改称。
2001(平成13)10 創立100周年記念棟完成、女子美アートミュージアム(JAM)落成。
2003(平成15)4 女子美術大学研究所、女子美オープンカレッジセンターを設置。
2010(平成22)4 芸術学部に美術学科(4専攻)、デザイン・工芸学科(4専攻)、アート・デザイン表現学科(4領域)を設置。短期大学部造形学科を美術コース(平面・立体)・デザインコース(情報デザイン・創造デザイン)に改組。
2010(平成22)11 創立110周年記念式典挙行。


女子美専生の頃の幸枝


女子美専卒業送別会 1931(昭和6)年2月
右端男装の人が幸枝(当時1年生)


卒業旅行 興福寺五重塔前で
左から4人目:幸枝
左から3人目:修身担当の田村一郎先生


嵐山?にて 寄宿舎生と共に
右端:幸枝
最前列:舎監で日本画担当の清水たつ先生


解 題

幸枝によれば、在籍当時の女子美専は「東京菊坂女子美術専門学校」と呼ばれていたようである。ところがそれをキーワードにインターネットで検索しても拾い出すことができない。「女子美術専門学校」または「東京女子美術専門学校」ならばいくつか検索にかかる。「女子美術専門学校」だけではどこに所在するのか分らないから、俗に東京とか菊坂とかを頭につけて呼んでいたのであろう。事実、『女子美術大学八十年史,』(女子美術大学, 1980)の94頁には、<当時すでに「菊坂の女子美」という名で世間に通用>と書かれてある。1921(大正10)年に附属施設を菊坂に残して女子美術専門学校は杉並に移転するが、東京空襲で菊坂校舎は焼失、平成2年に芸術学部相模原校舎が完成すると、もはや東京とか菊坂とかをつけて呼ぶわけにはいかなくなった。「女子美」は、専門学校に対しても大学に対しても通用する略称である。

女子美術専門学校規則第三条によれば、本校には以下のように科・部が置かれ、修業年限が定められていた。

高等科 日本画部 3年
      西洋学部 3年
師範科 日本画部 4年
      西洋学部 4年
      刺繍部   3年
      造花部   3年
      裁縫部   3年
専修科 刺繍部   1年及び2年
      造花部   1年及び2年
      裁縫部   1年及び2年
研究科         1年

つまり、師範科の日本画部と西洋画部は4年制であり、修業年限の点でも現在の大学に相当することがわかる。

幸枝と同期の1934(昭和9)年3月師範科日本画部卒業生は、手元の『女子美術同窓会名簿1963』によれば19名(逝去者3名、消息不明2名)を数え、職業欄に記載があるのは山本 貞(さしえ画家)、平口幸枝(草月流活花師範、一陽会会員と印刷されているが、「会員」ではなく「会友」)、安田正子(旧姓栖原、鴎友学園講師)の3名である。早岡千代子(池部)、高井田鶴(田中)、加藤房子(佐藤)、安田正子の4名に赤の下線が引いてあるのは、卒業後も交流があったからだろう。

昭和6年・昭和11年卒業アルバム(女子美術大学同窓会事務局が必要部分をコピーして送ってくださった)によれば、当時の日本画担当の教員は結城貞松、松島松太郎、遠藤教三、清水たつ、今井みき、以上5名である。

石川県立美術館所蔵品の作家解説によると、元金沢美術工芸大学教授の畠山錦成(1897〜1995)が女子美術専門学校の講師をしていたのは1937〜1944(昭和12〜19)年である。幸枝が卒業したのは1934(昭和9)年、結婚するのが1938(昭和13)年だから、卒業後、結婚前に畠山の教えをうけることがあったとしたならば、1937年ころのことであろう。

1960(昭和35)年7月、海外研修中の乗松巌が元ギリシャ・アカデミー院長スピロス・メラスより贈られた「人生は短く、芸術は永し」の書を大理石に刻んで持ち帰った。これが杉並校舎校門脇に設置されている。この格言、逝去者の作品を鑑賞するにつけ、まことにその通りという感慨をいだかせる。

華徳 金沢ひまわり平和研究室 管理者 平口哲夫