エデンの園より出でて

平口 哲夫


 「そこで主なる髪は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた」(創世記3章23節)

ここ十数年、私は日本列島の北から南まで、数万年から数百年前にわたる諸遺跡の発掘調査に従事してきた。根っからの考古マニアでなし、さしたる動機あってのことでもないが、興味ある分野のうちのひとつに進むことができたことを感謝している。考古学と一口に言っても相当に広範な内容を含む。編者から聖書考古学についてとの希望もあったが、主として旧石器文化を研究してきた私は、パレスチナの場合でもおのずと聖書以前に目が向いてしまう。

人が耕す者となったのはかなり昔のことで、紀元前7000年ころ、西アジアの山麓地帯に始まった農耕牧畜が確認できる最古のものである。食糧採集から食糧生産への変化は人類にとり革命的な出来事であった。「文化(Culture)」はまさに「耕すこと(Cultura)」によって飛躍的に発展したのである。どうして食糧生産を開始することになったのか。自然環境の変化により食糧が減少したためか、それともなんらかの要因で人口密度が高まったため、地域人口を維持できなくなったのであろうか。西アジアでは自然環境の変化はさほどでもなかったらしい。そこで人口密度の増加について、うがった仮説も提起されているが、十分に納得できるものとはなっていない。当時、西アジア山麓には栽培飼育の可能な動植物がひと通りそろっており、長い旧石器時代をへて培われた文化が農耕牧畜のできるまでの水準に高まっていた、と言うことはできる。しかし、それに踏み切らねばならぬ理由が果たしであったかどうか。禁断の木の実を食べた人間の仕業には、しなくてもすむが、し始めたらやめられないことが多いように思われる。

農産物のなかでも保存性に富む穀類の栽培は文明への道を開く鍵となった。その生産が開始されるや、拡大増産の一途をたどり、社会構造に大きな変化を引き起こす。生活の安定、人口の増加、そして余剰農産物の蓄積は専門職人を養えるようにし、社会的分業を促進する。天水農耕から灌漑農耕へと進むと、灌漑治水に多大な労力を必要とするため、祭司は宗教のみならず政治的にも共同体の統治を強める。神殿を中心に祭司、職人、商人が居住する町邑は、やがて「都市(Civitus)」と呼ぶにふさわしい規模となり、そこに「文明(Civilization)」という都市的な高度の文化が開花するにいたる。

文明の成立過程は階級社会の成立過程でもある。貧しく虐げられた人々を生み、悲惨な戦争を増大させたことは、文明の罪過に数えられる。

「地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る」(創世記第3章17節)。

死海の北方、イェリコで発見された紀元前7000年ころの集落は、早くも堅固な石造りの周壁に囲まれ、周壁には監視塔さえついている。

開発による遺跡破壊が相継ぐ今日では、考古学と言えども現代的問題に深く関わらざるをえない。そして、現代とは対極の原始時代に想いを馳せれば、そのきわだった相違と、本質的に変わらぬもののゆえに、かえって現代さらには未来へと関心が呼び戻さlれるのである。

 (すなどりNo.81、日本基督教団若草教会1976から転載、改訂)

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