1. 『人類誕生四百万年展』
勤務先の入学式に出席してから事務室に立ち寄ったところ、書店に注文していた鵜浦裕著『進化論を拒む人々―現代カリフォルニアの創造論運動―』(勁草書房、1998)が届いていた。実はこの本、昨年、ある新聞の書評で出版を知ったのであるが、そのときは特に読みたいという気はしなかった。ただ、書評の一部に「進化論を拒むような日本人はいないだろう」というようなことが書いてあったのが気になった。そのとき私は、「日本人には少ないだろう、とするべきでは」と心の中でつぶやきながら、10年ほど前の出来事を思い出していた。
1989年4月29日名古屋国際センターホールで人類誕生四百万年展開催記念シンポジウム『人類の起源と進化を探る』が名古屋市科学館・中日新聞社・NHK名古屋放送局の主催で行われた。私はその展示に少しばかり協力したということと、講師に予定されていたリチャード・リーキー(ケニア国立博物館館長)に会って話ができるかもしれないという期待もあったので、この集会に出席することにした(残念ながらリーキーさんは急に来日できなくなったので、彼には会えなかったのだが)。
講師3人のうちの一人、アンリ・ド・リュムレー(フランス国立自然史博物館長)の講演が終わったあとの質問時間、まっさきに手をあげた一男性の発言にリュムレーさんも司会者も当惑したようであった。「私はキリスト教徒ですが、人類が類人猿から猿人、原人、旧人、新人と進化したというのはほんとうですか」という質問だったからである。これに対し、リュムレーさんはほぼ次のように答えた。「人類がどのような系統をたどって進化したかについては、いろいろな学説があり、分からないことも多々ありますが、人類の進化はキリスト教の信仰と両立しないわけではありません。事実、古生物・古人類学者であり、カトリックの神父でもあったティヤール・ド・シャルダンは、進化を前提として豊かな思索をめぐらしました」と。しかし、つづいて手をあげた一女性も「講演内容は、私が日曜学校で子どもたちに教えていることと違います」と食い下がる。観客席の前のほうに座っていた男性(たぶんシンポジウムの世話をした学者であろう)がたまりかねてマイクロホンの前に立ち、「リュムレーさんは古人類学者ですが、カトリック教徒でもあり、教会のミサにも出席しておられます」と述べ
て場をおさめた。質問した男女は、ファンダメンタリズム(原理主義または根本主義)の教派に属するのであろう。まさか日本での講演でそのような質問をあびせられるとは、リュムレーさんも予想しなかったに違いない。
2. ホームページ「創造学校」
さて、先月、インターネットで某教会のホームページを訪ねたら、リンク集に「創造学校」というのが紹介してあったのでクリックすると、なんと創造論を宣伝する内容のものであった。「創造学校」は、子供たちが進化論の誤りに気づいてくれることを願ってつくられたというが、賢明な子どもたちだったら、進化論の問題点だけでなく創造論の問題点にも気づいてくれることだろう。しかし、大人でもだまされかねない手口で構成されている「創造学校」に、未熟な生徒が惑わされてしまう可能性も大きい。宗教的な善意によるだけに、かえって始末にわるいのではないだろうか。
たとえば、日本では他国にくらべて急速に進化論が広まり定着した原因として、いろいろなことが考えられるが、次のうち最も正しいといえるのはどれかという設問で、@日本人は勤勉でよく勉強したから、A日本には科学とよべるものがなかったから、Bモースの話し方に説得力があったから、という三つの選択肢を用意し、Aが正解だとしているのはフェアな問題の出し方ではない。明治期になるまで日本に科学とよべるものがなかったというのは、事実に反するからである。むしろ、「日本はキリスト教国でなかったから」か「日本の土着宗教は精霊信仰に由来し、仏教の輪廻思想も定着していたから」を選択肢に入れ、これを正解とするべきであろう。
また、カリウム・アルゴン法によれば400万〜150万年前のものとされているアウストラロピテクス(猿人)の年代を、炭素14法(放射性炭素)によって年代測定するとどのくらい前の年代を示すかという設問で、@ほぼ同じ400万〜150万年前、A1万5000年前、B4000万〜1500万年前、という選択肢を用意し、Aを正解としているのも、理化学的年代測定法についての理解不足による悪問である。現在、地質学、古生物学、考古学などで用いられている理化学的年代測定法には、炭素14法やカリウム・アルゴン法だけでなく、これとは原理的に異なる複数の方法があるが、それぞれ測定できる年代範囲・試料が違っているので、場合に応じて使いわけされている。たとえば、炭素14法は、生物体に含まれる炭素を分析対象としており、私が学生の頃はせいぜい今から3万年くらい前までしか測定できなかったが、現在では方法が改善されて6万5000年くらい前まで測ることができるようになった。一方、カリウム・アルゴン法は、火山灰や火山岩を測定試料としており、数十万年以上前のものでないと役に立たない。フィッション・トラック法は数万〜数億年前の火山灰や黒曜石の年代測定に用いられ、また、
アミノ酸ラセミ化法は数百万年前までの応用がきく。だから、アウストラロピテクスの年代測定に炭素14法を用いても意味をなさないし、カリウム・アルゴン法だけでアウストラロピテクスの年代が推定されているわけでもないのである。
以上は、私の気づいた誤りの一部にすぎない。「創造学校」以外にも、創造論を主張するホームページがインターネットにいくつか掲載されているが、いずれも似たり寄ったりの誤りをおかしている。このようにインターネットにはいい加減な情報もたくさん流されている。したがって、レポートなどを書く場合、インターネットのホームページを利用するのはいいにしても、それを鵜呑みにするのではなく、必ず信頼性のある参考書を何冊か読むように学生にも注意をうながしている。それはともかく、どうしてこのような創造論がアメリカ社会に根強く存在し、日本にまで影響を及ぼすようになったのかという問題意識から、冒頭に紹介した本を急きょ購入して読むことにしたわけである。
3. 『進化論を拒む人々』
この本によれば、アメリカのキリスト教ファンダメンタリスト(聖書の記述を文字どおり事実として信じなければならないと主張する人たち)が、公立学校においても進化論教育を廃止し、キリスト教教育を復活するよう運動を展開しているのは、公立学校が荒れすさんでいる原因がキリスト教教育の廃止、進化論教育、性教育、そしてそれらによる子どもたちの聖書離れのせいだと考えているからだそうだ。なかでも進化論は、旧約聖書の「創世記」が説く神による創造を否定するという意味で、子どもたちの聖書離れに貢献した諸悪の根源と受けとめられている。
この本に紹介されていることだが、アメリカの代表的世論調査の一つ『ギャラップ調査』は、毎年アメリカ成人の宗教について調べている。その調査項目の一つに「ヒトの起源について」という項目があり、「次の三つのうち宗教とヒトの発達についてあなたの見解にもっとも近いものを選んでください」という質問と選択肢が設けられている。1993年6月の結果は、@「神がこの1万年のある時点で今の姿によく似たヒトを造った」(47%)、A「ヒトは何百万年もかけて未発達な生命形態から発達してきたが、神はその過程でいかなる役割も果していない」(11%)、B「ヒトは何百万年もかけて未発達な生命形態から発達してきたが、神は人間の創造をはじめその過程を導いてきた」(35%)、「わからない」(7%)であった。@(創造論)を選ぶ人たちは福音派・老人・女性・南部の人・低学歴に多く、A(進化論)を選ぶ人たちはおもに高学歴の人たちからなり、B(折衷論)を選ぶ人たちは多様であった。
私ならBを選ぶ。ファンダメンタルな聖書解釈に固執しているかぎり、進化論教育をうけた子どもたちが聖書から離れていくのは当然だ。逆に、創造論に洗脳された子どもたちが進化論を、科学的にではなく、偽科学的にしか検討することができないとしたら、それも憂慮すべき事態である。神の存在を科学的に証明することはできないし、神の存在を信ずるか否かは科学の問題ではない。だから、科学としての進化論と宗教としての創造論を区別するとともに、両立の思想をひろげ深めることがキリストの福音をのべ伝えるうえでも好ましいと思う。
聖書を「信仰の誤りなき規範」とする信仰告白は、聖書が科学書として誤りがないと宣言しているわけではない。聖書には、その書かれた時代や社会の知識・習慣・環境などが反映しているから、現在の科学知識に反する記述があっても不思議ではない。科学が未発達な時代に生きた人たちよりも現代人のほうが正しい信仰をもてるとは限らないわけだから、聖書の記述を文字どおり信じなければならないという主張は、あたかも聖書に忠実なようで、実はキリスト教信仰の本質に反するのではないだろうか。「聖書の記述に一部でも誤りを認めると、正しいかどうかの判断が神にではなく人間によってなされることになり、確かさの根拠が失われるから、聖書にはあらゆる点で誤りがないとしなければならない」と主張する人たちがいるが、はたして聖書とはそのようなものであろうか。そのような主張は、私たちが手にすることのできる聖書がどのような歴史をへて現在のような形をとることになったのかを考えてみただけでも、妥当ではないといえる。神の御導き、聖霊の御働きによるとしても、人間の手によって記され、編集され、翻訳される以上、なんらかの誤りが生ずる可能性はある。にもかかわ
らず確かさの根拠を聖書に求めることができるのは、それが記された時点はもちろんのこと、その後もたえざる聖霊の御働きのもとに読み解かれてきたという信仰に裏打ちされてのことだと思う。
小学校低学年の思い出に、六つ年上の兄が使った理科教科書(たぶん小学校高学年用のもの)に掲載された生物進化や絶滅動物の絵を何度も興味深くながめた記憶がある。これが私にとって最初の進化論との出会いであった。
中学校3年の理科の時間にごく簡単に進化論が取り上げられたが、私の頭にこびりついているのは自然淘汰(自然選択)、適者生存、生存競争、弱肉強食といったキーワードばかりで、先生がどのように生物進化について説明したかはほとんど覚えていない。ちょうど高校受験期でもあったから、そのことと進化論が重複して何か殺伐とした暗い気持にさせられた。そういう点では、創造論運動の動機にいくらか共感する面がないわけではない。進化論を教える場合にも教育的配慮が必要だということだ。一方、受験期ではあったが、生徒会の会長に選ばれたことから、いわゆる勉強以外にもいろいろなストレスを受ける羽目になった。若草教会の日曜学校には、中学2年のときから通い始めたのであるが、すっかり忙しくなったために3年のときには足が遠のいてしまったのである。
高校のときの生物教科書には、当然のことながら、中学校教科書よりも詳しく進化論について記述してあり、生物進化について再び好奇心をいだくようになった。若草教会にも再び通うようになり、ハイY(ハイスクールYMCA)にも入会したから、聖書を学ぶ機会はふえた。そこで問題になるのが創世紀の記述と進化論との関係である。教会の聖書輪読会ではおとなしく聖書を学び、ハイYの聖書研究会では遠慮なしに意見を言うといった感じであったが、どちらの場でも進化・創造論について突き詰めた話し合いがなされたわけではない。個人的にいろいろ考えてみたということなのだ。そのときの考えは基本的にいまも変っていない。高校入学後、数学・物理の成績がぱっとしなかった私は、早々に文系志望のクラスに入ってしまったが、もし理学部に進学していたら、きっと古生物学を専攻していただろう。けれども、文学部に入学したとはいえ、古生物学や古人類学との関係が深い考古学の道を歩むことになったので、進化論との付き合いは深まることになった。今西錦司さんの「すみわけ理論」による進化の話も、そのころに読んでいる。
現在の子どもたちが学校でどのように生物進化について学んでいるかを知るには、まず学校の教科書を読んでみる必要がある。私の息子も娘もすでに成人になっているが、二人が使った小学校から高校までの教科書はすべて押し入れの中にしまってあるので、これをひっぱり出して調べればおおよそのことはわかるであろう。しかし、そういうひまがない。とりあえず、勤務先の生物学の先生から、高校の教科書『生物U』(1998)を無作為に3冊(啓林館、東京書籍、数研出版)だけ借りて読んでみた。私が高校生のときに学んだ教科書と比べると、遺伝学的な研究成果が大きく取り入れられており、事例の紹介にも目新しいものがある。創造論者が進化論の誤りとして指摘している問題点のいくつかは、現在ではすでに否定された旧説、または証明されていない仮説として学史的に登場するだけであり、現在の進化学において幅をきかしているわけではない。短時間に変化する小進化については実験ができても、長い時間をかけて進行した大進化については再現不可能であり、大進化が小進化の積み重ねで生じたのか、別のしくみがあるのかはまだわかっていない、ということも明記してある。仮説的な性
格のつよい進化論から実証可能な進化学へと生物進化の研究が重点を移してきたことが読み取れる。
人類進化についての記述で注意したいことがある。「サルからヒトへ進化した」というような表現は現在の教科書でも見られる。しかし、サルはサルなりに進化し、ヒトはヒトなりに進化してきたのだから、正確には「サルによく似た動物からヒトへ進化した」というべきなのである。その「サルによく似た動物」は当然ヒトにもよく似ているはずだから、ヒトよりも類人猿にもっとよく似ていたに違いない。現在の類人猿のなかでもっともヒトに似ているのは、かつてピグミーチンパンジーと呼ばれたこともあるボノボである。実際、アウストラロピテクスの仲間であるアファレンシス猿人という化石人類の骨格は、ボノボにかなり似ている。アファレンシス猿人がそのまま進化して現代人になったという証拠はないが、「アファレンシス猿人によく似たヒトから現代人へ進化した」ということは言えそうである。その「アファレンシス猿人によく似たヒト」と現代人の間をつなぐのは原人(によく似たヒト)や旧人(によく似たヒト)であるらしい。DNA分析による最新学説では、アフリカで原人から新人への進化がおこり、その新人が世界にひろがって現代人のもとをなしたという。しかし、各地で原 人から旧人、旧人から新人へ進化したという説も、将来、新たな証拠をえて息を吹き返すかもしれない。なにせ、人類が誕生して以来、無数のヒトが生を営んだはずなのに、そのごくごく一部の化石しか発見されていないのだから、発見された化石人類と現代人の関係について確定的なことはなかなか言えないのである。
創造論者は、「サルからヒトへ進化したなんてとんでもない」と憤慨し、「サルはサル、ヒトはヒトとして初めから創造されていたのだ」と主張する。しかし、ヒトがどんなに原始的な生物から進化したとしても、生物創造の最初の時点から、ヒトに進化する種も、サルに進化する種も、それと定めて創造されていたとするならばどうだろう。この進化的創造論では、サルの祖先とヒトの祖先は過去にさかのぼるほど近似するかもしれないが、けっして共通の祖先にたどりつくことはないということになる。4で紹介した『ギャラップ調査』の質問選択肢B「ヒトは何百万年もかけて未発達な生命形態から発達してきたが、神は人間の創造をはじめその過程を導いてきた」も、一種の進化的創造論とみなすことができよう。現実には、きわめて近似した化石のどちらがサルに進化し、どちらがヒトに進化するのかということを見極めるのはきわめてむずかしい。しかし、その困難は、現在発見されている化石の系統関係を検討する場合でも、程度の差はあれ、経験していることなのだ。
進化・創造論争は、自然科学よりもむしろ人文・社会科学の分野でとりあげるほうがよいだろう。進化論が与えた社会的影響の一つに創造論運動があり、その運動には進化論だけではなく様々な社会的要因がからんでいると考えられるからである。
5. 日米宗教意識の違い
明治維新後、日本の近代化にプロテスタントは大きな貢献をしたが、進化論が定着したのとは対照的に、キリスト教信仰そのものはひろく受け入れられるには至らなかった。アメリカで創造論運動が驚くべき影響力と広がりをもっていることを考えると、日米間の宗教意識の違いに目をむけざるを得ない。
私が一時期、文化人類学の授業に採用した教科書に「宗教と世界観」という章があって、日本人の宗教についてもページがさかれているのだが、表現に一つ気にくわない点がある。たとえば、「日本人は多くの神を同時に信じることになんら抵抗をおぼえない」というような書き方をすると、日本人にもキリスト教徒がいるわけだから、「私は日本人だけどそんなことはありません」と言う学生も当然出てくるだろう。『進化論を拒む人々』の書評について指摘したのと同様、正確には「日本人には、多くの神を同時に信じることになんら抵抗をおぼえない人が多い」と書くべきではないだろうか。ただし、その信じ方は、キリスト教やイスラム教などの一神教とも、またヒンズー教などの多神教とも違うようだ。
日本人の宗教意識についてのいろいろな調査例では、何か信仰している宗教があるかと問われると、だいたい全体の6割から7割近くが「無宗教です」と答えている。しかし、無宗教と答える人も、特定の宗祖がいて特定の教義のもとに教団が成り立っているような宗教の信者ではないというだけであって、集団的な習俗としての宗教行事には参加し、個人的にもなんらかの宗教心をいだいている場合が多い。
このような宗教意識が主流となっている日本でオウム真理教の事件が起きたことから、日本の宗教全体を新たに問い直す動きが出てきた。しかし、カルト集団が引き起こす衝撃的な事件はアメリカをはじめキリスト教の支配的な国々でも起きている。創造論運動の社会的背景を検討していくと、カルトの問題ともどこかで結びつくような気がする。
『すなどり』にふさわしいかためらいながら、しかも中途半端に筆をおくことになりました。別の機会に補足させていただきたいと存じます。日ごろ怠慢な会員で申しわけありませんが、若草教会に連ならせていただいている幸いを感謝しつつ(4月8日)。
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