卯辰山流刑キリシタンの可能性のある
金沢市御所町出土人骨群について

―埋蔵文化財の定義ならびに取扱いをめぐる諸問題―

日本考古学協会第65回総会
埋蔵文化財保護対策委員会全国委員会
1999.5.21
前橋ユーアイホテル2階会議室「欅B」

平口 哲夫(金沢医科大学)



昨年10月に金沢卯辰山のトンネル工事現場で身元不明の人骨群が発見された。建設省北陸地方建設局金沢工事事務所の依頼で石川県教育委員会などが発掘調査したところ、約7m四方から13の墓穴が見つかり、中から土葬人骨が多数出土した。副葬品などが一切ともなっていないため、正体不明の人骨として騒がれたが、年代については、棺桶に使われたと思われる釘の形態によって、江戸末期から明治初期にかけてのものであろうと推定された。そこで、登場したのがキリシタン説とコレラ説である。特に前者は、明治初期に長崎の浦上キリシタンが全国各地に流刑され、加賀藩に配された人たちが収容された卯辰山の一角で、100余名が亡くなってその地に埋葬されたという記録や伝承があることから、カトリック教会関係や歴史研究者の注目をあびている。
 
私も正体不明人骨の発見報道に接したとき、まず想起したのが卯辰山流刑キリシタンの墓地ではないかということであった。また、たとえ、キリシタン関係ではなくても、その時期の人骨資料は北陸では乏しいことから、単なる法医学的な鑑定ですますのではなく、きちんとした人類学的調査をするべきだと教育委員会等に働きかけた。その結果、その調査に当る人類学者を紹介することになり、国立科学博物館人類部第二研究室長の溝口優司氏に打診したところ、同氏多忙のため、別の研究者をご紹介いただいた。

人骨鑑定の結果、約40体分の人骨のうち、性別が判明したのは22個体ですべて女性でしめられ、年齢については1歳から60歳代までの構成をなしていることが判明した。また、放射性炭素年代測定の結果は、棺桶用の釘から推定された江戸末期から明治初期ごろという年代推定を裏書きするものであった。

今年5月10日、建設省北陸地方建設局金沢工事事務所は、県教委等による調査結果と人骨鑑定結果をふまえ、当人骨が時期的に新しく、副葬品がともなっておらず、かつ人骨埋葬の経緯を明らかにする決め手に欠けることなどを理由に、この人骨を埋蔵文化財とはみなさず、法律に従って火葬にするという方針を発表した。しかしながら、それはあくまでも現時点の便宜的な行政判断であって、人骨の学術的価値を本質的に示しているわけではない。むしろ、今回の鑑定結果は、人骨の学術的価値を高めたと言える。以下に述べるようにこの人骨の重要性を考えると、火葬ではなく、現状のまま研究資料としてしかるべき公的機関において保管するのが最適であると確信する。

第一に、人骨がどのような経緯で埋葬されたにせよ、江戸時代から明治前期にかけての人骨資料は北陸ではきわめて乏しいのが現状であるから、この時期の資料というだけでも学術的価値が高いといえる。たとえば、金沢市木ノ新保遺跡から江戸時代の土葬人骨が多数出土しているが、これまでその比較に必用な同時代資料は北陸にほとんどなかった。その点、今回発見された人骨は、かりに幕末にコレラによって亡くなった地元民であったとしても、この時期、この地域の空白を埋める貴重な資料となる。また、浦上キリシタンであることが判明するならば、明治初期に起きた名高い事件の直接資料として高く評価することができるばかりでなく、長崎地方の該当期の人骨としても重要な位置をしめることになる。

第二に、人骨の埋葬状況や性・年齢構成の示す異常さは、キリシタン説に有利な状況証拠を示している。しかも、今回の鑑定結果は当局から求められた期限内に行うことができる最低限の調査によるものであるから、今後、時間と労力をかけて詳細なデータをとり、他の人骨資料と比較検討するならば、さらに大きな成果が得られるに違いない。また、DNA分析による血縁関係の検討、脂肪酸分析や炭素・窒素安定同位体分析による食性分析など、先端科学による方法を試みる必要もある。さらに将来、新しい画期的な研究方法が開発されることによって問題を解決することができるかもしれない。火葬に付されてしまえば、こうした解決の道は完全に断ち切られてしまい、取り返しがつかないことになる。

以上のように、当人骨は、歴史的・人類学的に重要な資料であるから、これにふさわしい公的研究機関において現状のまま保管し、研究資料として活用できるようにすることが望ましい。そこで、しかるべき公的機関による保管が実現するよう各方面に働きかけたところ、国立科学博物館で保管可能であるとの返事を溝口氏から得ることができた。そこでこの話を金沢工事事務所に伝えたところ、個人ではなく、学会による要望書が寄せられるならば要望に答える用意があるとの好意的な回答を得た。この問題にもっとも関係の深い学会は日本人類学会であるから、溝口氏を通じて同学会に要請したところ、緊急に対応するには、国立科学博物館人類部長名で建設省当局に要望書を提出し、その要望書に人類学会長名の賛意表明書を添付するのがよいとの助言があり、その方向で手続きを進めることにした。手続はまだ完了していないが、問題の人骨の火葬は免れ、国立科学博物館で保管される見通しである。

さて、今回の一連の出来事を通じて、いったい何をもって埋蔵文化財とみなすのかという考古学にとって最も根本的な問題についてあらためて考えさせられた。第一に、「江戸末期から明治初期の遺物は埋蔵文化財ではない」とみなすことに大いに疑問を感じる。第二に、「副葬品を伴わない人骨は埋蔵文化財ではない」というのもおかしな見解である。第三に、「埋葬の経緯が不明ならば埋蔵文化財ではない」としたら、およそ考古学は謎解き無用の学問になってしまう。近代日本において信教の自由が確立されていく過程を明らかにするうえで、明治初期のキリシタン流刑事件の重要性が歴史家によって再評価されているが、それに呼応するようにその事件の犠牲者である可能性を秘めた人骨群が発見されたのである。このような人骨は、一面的な行政的判断で埋蔵文化財ではないとみなすのではなく、多面的な学術的判断により埋蔵文化財相当の扱いをするべきである。

(一部、字句を訂正)

金沢ひまわり平和研究室 平口哲夫執筆の文献  管理者 平口哲夫