平口哲夫の文献リスト:石川考古学研究会会誌




石川考古学研究会会誌第28号 (1985)


石川考古学研究会は、1948年(昭和23)10月に在野の研究団体として発足し、翌年3月に会誌第1号を刊行している。私が石考研に入会したのは1968年(昭和43)、大学4年のときである。1969年(昭和44)3月刊行の会誌12号末尾には学生会員として名簿登載されている。

会誌への投稿は、当時、石川県立郷土資料館(現石川県立歴史博物館)の資料科長をしておられた吉岡康暢氏(現国立歴史民俗博物館教授)に頼まれて分担執筆した辰口町灯台笹遺跡発掘調査報告が最初である。この調査当時、私は東北大学大学院修士課程に在籍し、旧石器時代のナイフ形石器文化を専攻していたことからお声がかかったわけである。後輩の東北大学学生岡村道雄(現文化庁主任文化財調査官)・加藤道男(現東北歴史資料館)・小林博昭(現岡山理科大学教授)・高野芳宏(現東北歴史資料館)四氏とともに、この発掘調査に参加した。

会誌の編集には、第25号から第37号まで編集幹事代表として携わった。編集後記を抜粋して末尾に付す。

文献リスト

平口哲夫・吉岡康暢 1971 石川県灯台笹遺跡の調査 石考研会誌 14 61-72
沼田啓太郎・平口哲夫・南久和 1977 金沢市天池遺跡 石考研会誌 20 55-71
平口哲夫 1978 能登福浦ヘラソ遺跡出土の楔形石器 石考研会誌 21 99-105
平口哲夫 1981 珠洲郡内浦町不動寺公民館遺跡出土の掻器 石考研会誌 24 73-76
万沢不二雄・岡本晃・平口哲夫 1982 志賀町神代貝塚の発見と出土遺物について 石考研会誌 25 11-30
平口哲夫 1983 北陸におけるナイフ形石器文化の変遷についての予察 石考研会誌 26 1-39
小金沢正昭・高杉欣一・平口哲夫 1984 上山田貝塚第4次調査出土のフン石について 石考研会誌 27 25-34
平口哲夫 1985 北陸における縄文時代の動物遺体出土遺跡と水域環境 石考研会誌 28 57-78
北陸旧石器文化研究会
(平口哲夫・梶幸夫・樫田誠・麻柄一志・松井政信)
1986 手取川流域旧石器時代遺跡群の予備的調査 石考研会誌 29 21-42
平口哲夫 1989 縄文時代のイルカ捕獲活動―北陸の地域性を中心に― 石考研会誌 32 19-38
会誌編集幹事編(平口哲夫ほか) 1992 石川考古学の動向―1990〜91― 石考研会誌 35 113-127
会誌編集幹事編(平口哲夫ほか) 1994 石川考古学の動向―1992〜93― 石考研会誌 37 103-122
藁科哲男・東村武信・平口哲夫 1995 富来町福浦港ヘラソ遺跡出土の黒曜石製遺物の原材産地分析と考古学的考察 石考研会誌 38 29-40
平口哲夫 1997 発掘調査報告書の編集はいかにあるべきか―最近の石川県下発行の関係文献を読んで― 石考研会誌 40 77-82
平口哲夫 2016 北陸の縄文時代遺跡出土動物遺体が示すもの (PDF) 石考研会誌 59 27-32

編集後記

第25号(1982)

本号は期せずして縄文時代4篇を中心に旧石器時代(先土器時代)・歴史時代各1篇が彩りを添えることになった。中学校の先生・生徒による成果を基礎とした報告2篇、考古学的な領域に属する論文2篇の取り合わせとなったのもなかば偶然である。

掲載順序は時代順とした。共同執筆と分担執筆の表示の仕方については、色々な場合が想定しうるので、執筆者の意向にまかせた。会員外に特別寄稿を依頼した場合、および特に執筆者が必要とする場合に限り、所属機関を付記した。その他、引用・参考文献の表示方法など、必要最小限の投稿規程を設ける必要性を感じたが、今回は執筆者の自由にゆだねた。

さて、例年より1シーズン早く刊行しようと努力したものの、やはり予定よりも遅れてしまった。早々に原稿を出してくださった方々にはまことに申し訳なく思う。

特別の編集方針を打ち出したわけではないが、石考研の良き伝統を生かしながら新しい会誌の在り方を実現するための、いわばつなぎの役割を本号が果たしうるならば幸いである。 (後略)

(文責 平口)

第27号(1984)

記念大論集となった会誌第25号の直後でありながら、前々号に勝るとも劣らぬ内容の会誌を、しかも所定の期限内に刊行できたことを率直に喜び安どするものである。速やかに玉稿をまとめられ、校正を進めてくださった執筆者各位に、まずは御礼申し上げる。

巻頭を飾る藤論文は、身近な地域を中心に人類史にかかわる古環境の変遷について、雄大に論じられたものである。初端に英文要旨というのは、従来の会誌の通念からすればいささか違和感がないでもないが、国際的に活躍しておられる藤先生のたっての希望によるものであり、会誌編集がいたずらに専門化を指向するものではないことをご了解願いたい。

上山田貝塚のフン石に関する本誌報告は、執筆者の一人平口が編集した『上山田貝塚』を補充するのみならず、自然科学者と考古学者との協力関係の在り方を示す一例としてお読みいただければと思う。

鳥屋町良川北古墳群を中心とする唐川報告は、本会の事業の一つである石川県主要古墳群分布調査事業の一環をなすものであり、草の根考古学の本領を発揮して大きな成果を納めている。

花塚論文は、高松町若緑地内新発見の須恵器窯を中心に、叩き目文から生産関係を論じたものであり、また、木立論文は、七尾市古府町周辺の古瓦を対象として供給体制を論じたものである。いずれも大学卒業論文の一部を基礎としており、卒業仕立ての若手会員にとって本誌が良き登竜門となれば幸いである。なお、両論文については、編集幹事以外に特に吉岡副会長にも目を通していただいた。

穴水町西川島遺跡の発掘調査成果に基づく四柳論文は、中世荘園村落の信仰を研究課題とするものであるが、文献史学のみならず民俗学的知識をも大いに必要とする分野であり、日ごろ民俗考古学を志す四柳会員にとって、まさに腕の見せどころといえよう。

畑中会員ほかと津田会員による2編の資料紹介は、七尾市域の縄文時代遺跡を扱ったものである。いずれも、会の原点である草の根考古学の健在を示すものであり、今後も一層の活躍が期待される。 (後略)

(文責 平口)

第28号(1985)

(前略) 県下においても、毎年、開発に伴う発掘によってもたらされる考古資料は膨大で、逐次刊行される報告書も相当量にのぼる。それ自体、考古学発展の基礎として貴重なものに違いないが、あまりに量が多くて消化不良を来しているという面もなきにしもあらず。その点、今回の縄文時代関係論文(橋本、山本、平口論文)には、諸情報を血肉化する作業として大いに評価すべきところがある。

県内主要古墳群の分布調査は、本会が県の委託を受け昭和57年から7カ年継続して実施した調査である。450基を超える鳥屋・高階古墳群を発見するなど県内古墳群の把握に大きな成果をあげてきたことは、本会の原点である草の根考古学のもたらした成果として高く評価されてきている。第7年度の調査は、四柳・唐川・河村の各幹事らを中心に進められたのであるが、今回、河村幹事によってまとめられた前波古墳群の調査はその成果の一部をなす。埋葬施設の検討から能登における後期古墳の主体部のあり方に新たな類型が抽出されている。

唐川幹事による鳥屋町末坂古墳群の報告は、前号の吉川北古墳群の報告と一連をなす。二宮川流域の古墳群の実態が須恵器窯跡の研究と相まって明かにされつつある。

宮本会員の論文は、北加賀における小型高坏集成し、その器種変化を追求したものである。近年とみに土器編年の細分化がはかられているが、氏の考察のように小型高坏という祭りに関係した特殊な器種の消長にこそ、それを解明する手掛かりがあるのではなかろうか。

近間会員は、ほ場整備工事によって一部破壊された窯跡群について報告している。鳥屋古墳群は、古墳時代後期から平安時代中期に至る一大窯跡群であるが、近間報文にある7世紀代の様相がこれまで不鮮明であった。その発見の意義は大きい。

唐川幹事による2編の資料紹介は、遺跡の周知化をはかる原点でもあり、開発事業に対する埋蔵文化財の保存のための原点でもある。 (後略)

(文責 平口)

第29号(1986)

今冬期の金沢気象観測所における総降雪量は688cm、最深積雪は113cmであった。昭和38年の豪雪と比較してみると、最深積雪181cmには遠く及ばないけれど、総積雪量の点では587cmを凌駕し、史上第2位の記録となった。ちなみに総降雪量の第1位は昭和2年の712cm、積算積雪の第1位は昭和38年の7,328cmである。

降り積もった雪がだいぶ解けたころにまた寒波が襲来し、繰り返し除雪に汗を流さなければならないというのが今冬期の雪の特色であった。このような中で当会誌の執筆・編集が進められ、待ち遠しい春の到来とともに漸く刊行に漕ぎつけることができた。(中略)

今回も多様な論文・報告等を掲載することができたが、特に若い学生会員の投稿のあったことを大いに喜ぶものである。執筆者が固定することは編集者の望むところではない。常連が遠慮せざるを得ないくらい、多くの方々から原稿が寄せられることを期待してやまない。

石川考古学研究会という地域考古学の核がはたす役割は、埋蔵文化財センターのような行政機関の充実とともに変化が生ずるにしても、バランスのとれた考古学の発展のために今後ともますます重要性を帯びることになろう。そのような観点から、会誌の在り方を再検討することも必要であろう。ともあれ、各位の努力の結晶をお届けして、一息つかせていただくことにする。

(文責 平口)

第30号(1987)

本号は、久し振りに高堀先生から玉稿をいただいたが、会員・幹事として活躍された故嵯峨井氏のコレクションの一部をまとめられただけに、石考研らしい味わいのある内容になった。その一環としてやはり一稿を寄せられた加藤会員は、真脇遺跡の発掘調査・遺物整理の全般に従事し、大いに知見を広め、特に北陸の縄文土器についてはすっかりマスターしてしまった。その蓄積を生かして今後もご寄稿いただけるものと一同期待している。

植物性遺物の資料紹介と縄文中期中葉炉について2編を寄せられた山本会員は、恩師の渡辺誠先生から受けた学恩を北陸の地で発揮して、精力的に一連の仕事に取り組んでいる。今回まとめられた炉関係の論文は、資料集成が中心をなすが、今後の発展が期待される基礎作業と言えよう。

石材産地分析と動物遺体についての2編の報告は、本会会員との連名で会員以外の方々に執筆をお願いしたものである。単に形式的な問題だけでなく、依頼した分析・鑑定の結果について、発掘調査や遺物整理を担当した会員が考古学的な脈絡の中で検討を加えることが大切であると思われるが、会員側の多忙が原因してか、現時点では趣旨が十分生かされていないようである。なお、この点については将来に期したい。執筆いただいた藁科・東村両先生ならびに渡辺先生に感謝申し上げる。

唐川会員による赤浦古墳群分布調査報告は、最近の会誌に連続的に掲載されている能登地域の古墳群分布調査報告と合せ読んでいただければ分かるように、同氏らによる息の長い取り組みの一端を示すものである。佃・木立会員と永井雄三氏による論文は、製鉄遺跡14C年代測定について考古学的立場からまとめ、問題提起したものである。自然科学者まかせではない姿勢に敬意を表する。

石考研が実施してきた中近世城館跡5カ年調査事業の一環として行われた鳥越弘願寺跡調査の中間報告が、芝田会員を中心に今回まとめられた。この分野の一大発展の機運を示す力作と言えよう。また、弘願寺文書を紹介された木越会員の作業は文献資料から弘願寺の姿を探る貴重な資料である。

前号に続く橋本副会長による考古学史は、今回昭和30年代に入り、最近流行りの自分史の性格も帯びて、いよいよ興味深いものとなってきた。続編を楽しみにしておられる会員も多いことと思う。

さて、今年度は昨年とうって変わって暖冬の中での編集作業、お彼岸の日に第2校のゲラを読んで後記を書く辺りは従来と余り変わらない。皆様のご尽力で、何とか年度内滑り込みセーフで行けそう。感謝。

(文責 平口)

第31号(1988)

最近出版の考古学講座や考古学概説には、必ずといっていいほど、「現代と考古学」の巻なり章が設けられており、考古学がきわめて現代的な学問であることを如実に示している。実際、仮に現代社会から逃避して考古学の世界に没頭したくても、大開発に直面した埋蔵文化財の保存問題が端的に示しているように、現代社会のあつれきから逃れることはとてもできない。

むろん、石川考古学研究会は、そのような消極的な姿勢で社会に対応してきた訳ではなく、「考古学に関する研究と文化財保護活動の推進に努める」ことを大きな目的として、様々な事業を展開してきた。本誌は、会もしくは会員による研究成果の発表の場としての性格が強いが、会の日常的な諸活動や会員相互の交流に負うところが大きいことは言うまでもない。

次年度は創立40周年記念事業の一環として特集号の刊行が予定されており、本号の編集もそのことを念頭においての取り組みとなった。いつになく厳しく原稿受付を締め切ったのは、印刷の混む時期を避けるという従来からの方針もあるが、特集号のための余裕を生み出したいからでもあった。 (中略)

40周年の歴史を振り返る座談会も企画されている。この座談会は、各世代の代表が草創期から活躍しておられる会員を囲んで話を承るという趣向であるが、世代をどのように捉えるかはちょっとした現代史の問題になるのではあるまいか。創設当時からの研究者を第一世代、昭和30年代に高校教師としてクラブ活動を指導した経験のある研究者を第二世代、この頃の高校クラブ活動で教えを受けて現在中堅となっている研究者を第三世代と呼ぼうというのが、ほかならぬ橋本副会長の説である。編集者の中にもまさにこの第三世代属する者がいる。第四世代や第五世代はどうなのかということも関心を呼ぼう。

世代論はともかく、様々なせせらぎが本流に注ぎ込んで大河をなすに至るとするならば、せせらぎに対する歴史的評価も必要である。今回長編を寄せられた藤井、近間両氏は、共に金沢大学考古学研究会の出身、今後の活躍が期待される新進気鋭の会員である。一枚岩のように一見頑丈なコンクリート建築物は、地震に対してはかえって弱いという。単細胞的社会は危険であり、多様性を許容する社会こそ実は強い。”草の根考古学”を大切にしながら、懐深く多士済々。そのような会であり会誌であると思う。 (後略)

(文責 平口)

第32号『北陸の考古学U』(1989)

創立40周年記念論集『北陸の考古学U』は、35周年に際しての大著『北陸の考古学』に続くもので、その間にも各号120頁以上の会誌が順調に刊行されております。これは石川考古学研究会の日ごろの活動の成果と底力を示すものでありましょう。 (中略)

様々な困難はありますが、埋蔵文化財の保護・研究に相親しむ民間団体として今後とも邁進し、45周年・50周年と太い年輪が形成されていくことを一同念願してやみません。

まことにお労しいかぎりですが、ご闘病中の櫻井会長が本書の刊行前に突然逝去されました。その学風さながら厳しい入念な校正でも知られる先生に委員長として是非目を通していただきたかった、それが叶わなくても、せめて完成の暁にはご覧いただけるものと思っておりましたのに、ほんとうに残念でなりません。本書をご霊前にお捧げし、衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。

(文責 平口哲夫)

第33号『櫻井甚一先生追悼中・近世特集』(1990)

櫻井甚一先生が逝去されたのは、前号の編集にとりかかって間もない頃のこと。私達は、悲しみに胸塞がれつつも、先生のご遺志に報いようと気持ちを奮いおこし、『北陸の考古学U』を完成させ、ご霊前に捧げた。そうして、誰からともなく「次の会誌は追悼号として中・近世考古学特集号を」という声が湧きおこり、幹事会・総会の議をへて本号の企画が実現したのである。最終的に15編の論文が寄せられ、うち中・近世関係は11編にのぼる。総頁数は240余り、当初の予定をはるかに超える規模となった。

中・近世論文の掲載順序については、櫻井先生のご専門に一番近い宗教関係を最初とし、次に生産関係、そして最後にまとめを兼ねて橋本副会長の論文を掲げた。それ以外の論文については従来どおり時代順を基本とした。全体を通読すると、専門外の読者にも、県下の中・近世考古学が多様で奥深く、今後の発展が大いに期待される分野であることがご理解いただけると思う。本号がこの分野の専攻者・愛好者の増加を促すとともに、中・近世遺跡の保護にも寄与することを願ってやまない。 (後略)

(文責 平口)

第35号(1992)

本号は、特集号を予定していたが、準備不足のため通常号として刊行することにした。その代わり、従来にない試みとして「石川考古学の動向」を掲載することにした。また、平易で楽しい読み物もぜひ載せたいと思い、ある機会にそのような意向を米沢会員に伝えたところ、まさに打ってつけの原稿を寄せてくれることになった。 

論文・報告としては、古墳時代から近世までの分野の力作4編がある。巻頭を飾る原田会員の論文は、卒論をベースに、古墳時代初頭前後の北陸における東海系土器を扱ったものである。加賀藩祖をもちだすまでもなく、北陸と東海はなにかと歴史的因縁が深い地域だが、氏が今後の課題としているように、東海系土器の地域相が示す歴史的背景については、大いに興味がそそられる。

 「古墳文化を学ぶ会」による古墳測量調査報告は、加賀・能登各1古墳を対象に精確な測量調査を行い、これに基づき原形を復元、さらに造営時期や性格を検討するという、手堅い手順を踏んでいる。コンピュータグラフィックによる俯瞰図は、従来の実測図や写真に加えて視覚的な理解を深めるのに効果的である。続編が予定されており、今後の成果に期待したい。なお、研究グループの名称については、一考を要するのではないかと幹事会で問題になり、執筆者とも相談したのであるが、最終的には編者の判断で原案通りとした。

四柳会員による漆器考古学の論文は、マスコミにも取りあげられて話題となった前号論文の続編である。石川県は漆器産業のお膝元だけに、各界の関心を呼んだものと思われる。特殊な学際的専門領域であり、門外漢にはとっつきにくい点もあるので、一般向けの平易な入門編も何かの機会にぜひ寄稿していただきたい。

加賀一向一揆城郭寺院についての考古学的アプローチは、最近の石川考古学において特筆されるべき研究動向の一つである。その担い手の一人、芝田会員を中心に実施された津幡町莇谷圓光坊跡調査の報告が本誌に掲載されている。このような地道な学術調査の積み重ねが、一向一揆遺跡に対する一般の認識を深め、保存運動の底力にもなるのではないだろうか。

(文責 平口)

第36号(1993)

私どもにとって極めて大きな存在であった高堀勝喜名誉会長が、本年3月13日に逝去された。衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。 (中略)

高堀先生が名実ともに会を代表されて、県下の埋蔵文化財にかかわるあらゆる分野で縦横無尽に活躍されていた頃、私ども昭和20年生以降の世代も先生のご厚誼を得て精神的に高揚し、会員として考古学的活動に意欲的に取り組むことができた。目配り、気配り、話し上手の先生との温かな、そして時にはおっかない交流の日々が懐かしく思い出される。 (中略)

本号は、当初「北陸の遺跡・遺物からみた生産と流通」をテーマに特集を組むはずであったが、予定していた大口の原稿が出ないことになり、やむなく通常号として刊行することになった。試みが二度も失敗したことは面目ないことである。しかし、山本会員の論文は、現生海藻の分布から古代土器製塩に迫る、”特集テーマ”にふさわしいものである。また、滝川・田村・木立・増山・藤田各会員分担の論文は、現在金沢市民の関心の的となっている金沢城跡の利用問題にも重要な視点を与える時宜に適った試みといえよう。

高堀先生と古くから親交を持たれた村井評議員は、今回、押水町の紺屋ジュウレンボ遺跡を紹介してくださった。久田会員の論文は、高堀先生が発掘調査顧問をされた真脇遺跡の弥生土器を扱っている。宮本会員の額谷御廟谷遺跡についての論文は、高堀先生の著書の引用から始まっている。偶然の一致であろうが、何かのお導きのようにも思える。合掌。

(文責 平口)

金沢ひまわり平和研究室 平口哲夫執筆の文献  管理者 平口哲夫