随想 イルカはいるか

平口 哲夫

(金沢医科大学学報,38:24-25,1985)



現在、我が研究室では、能都町真脇遺跡から出た多量のイルカの骨を整理している。およそ人文科学のイメージにそぐわない何百という魚箱が積み上げられているのも、そのせいである。

私が動物考古学に着手したのは、本学で禄を食むようになって間もない昭和50年と51年に、宇ノ気町上山田貝塚を発掘調査してからのことである。この遺跡は、昭和6年に地元の開業医、故久保清先生が発見、調査された貝塚で、今は国指定遺跡として手厚く保存されている。仙台で9年間、学生・院生の生活を過ごした私は、貝塚の宝庫といわれる松島湾沿岸でよく遊び、専攻の旧石器文化のみならず貝塚研究にも大いに魅力を感じていた。そこで、上山田貝塚再発掘の機会が巡ってきた時、二つ返事で調査主任を引き受けたのである。

イルカやクジラについては以前から関心があったが、真脇遺跡でイルカを主とする多量の鯨類骨が発掘されたのにお目にかかってから、俄然興味が倍加し、すっかりそのとりこになってしまった。イルカやクジラのファンになったといっても、欧米の動物保護運動にまま見られる理不尽な主張には組しかねるが。

前述の上山田貝塚からもわずかながら鯨類骨が出土しており、イルカの脊椎骨やクジラの肋骨・脊椎骨が認められる。当貝塚は、縄文時代中期(約5000年〜4000年前)に属する。そのころの海岸線の位置は現在とさほど変わらず、貝塚から約3kmのところにあったが、河北潟汀線はいまよりも貝塚寄りの約1kmほどのところに位置していたらしい。当時の河北潟も粟ケ崎・金石間で海に開いていたから、河北潟に迷い込んだイルカを縄文人が捕獲した可能性は、無きにしもあらずである。しかし、クジラはたぶん海岸に漂着したのをその場で解体したものであろう。いずれにせよ、上山田貝塚の場合、イルカもクジラも肉や脂肪や皮以外ははとんど捕獲した場所に捨てられ、あるいは祭られ、骨まで集落に持ち込まれることはまれであつたと考えられる。むろん、当貝塚周辺でイルカやクジラを捕獲する機会も、まれであつたといえよう。

ところが、真脇遺跡ではイルカの骨が頭部から尾部にいたるまでまんべんなく出ている。イルカを水揚げした浜のすぐ近くに遺跡が営まれていたことは疑いない。現在、遺跡の中心から海岸線までは約400mを測るが、イルカの骨が最も多く出土した縄文時代前期後葉(約5500〜5000年前)の時期には、海岸線が更に深く湾入していたとみてよい。真脇遺跡の鯨類骨の圧倒的多数は、マイルカとカマイルカという体長2mほどの小型イルカで占められ、体長2.5mほどのハンドウイルカがこれに次ぐ。オキゴンドウやハナゴンドウなど、体長4、5mの大型イルカの骨もあり、この種については俗にクジラ扱いされることもある。更に、コイワシクジラやナガスクジラ級の大型クジラの脊椎骨も見いだされる。かつて沿岸捕鯨が盛んであった能都町の歴史をほうふつとさせるような骨のリストである。

北陸で動物遺体を多量に出土する遺跡といえば、貝塚か低湿地遺跡に限られる。このところ発見例が増加しているのは、低湿地の方である。低湿地遺跡で動物遺体が出たと聞かされると、「イルカはいるか?」と問い返すことにしている。

末筆ながら、真脇遺跡出土動物遺体の整理に当たっては、本学から格別の配慮を賜わっていることを銘記し、厚く御礼申し上げます。


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