故・湯川スミ先生との思い出



世界連邦運動に多大な貢献をされた湯川スミ先生(湯川秀樹博士の奥様)は、2006年5月14日に逝去なさいました。左の写真は、2005年10月1日、広島市のアステールプラザ中ホールで開催された第25回世界連邦日本大会『世界連邦へのロードマップ―被爆60年広島からのアピール―』に出席の折、懇親会の会場で先生を囲んでご婦人たちが記念撮影をしているところに仲間入りさせていただいたものです。先生は車椅子を使用しておられましたが、90歳半ばとは思えないほど、とても若々しくお元気でした。

私はその2年前に先生に手紙を出し、世界連邦運動協会石川県連合会の機関紙「世界連邦石川」28号に寄せられた玉稿をホームページに再録させていただきたい旨、お伺いを立てました。しかし、ご返事がないままに年を越し、2004年4月に私は脳梗塞を患い金沢医科大学病院に入院する羽目になりました。その入院中に先生から丁重なご承諾のお手紙が届いたのです。先生は、ご多用のなか国内外から寄せられる多数の手紙にご返事を書いておられるので、私への返信も遅くなってしまった旨のことが手紙に記されておりましたので、感謝・感激した次第です。

世界連邦運動は核兵器禁止運動の先駆けでもあることは、「世界連邦石川」28号に湯川スミ先生が寄せられた巻頭言「今こそ世界連邦の実現を」からも察せられます。その一部を抜粋して以下に転載します。

〉 湯川秀樹とスミが昭和23年(1948年)に、終戦後最初の日本人のアメリカ大学教授・家族として、まる5年のアメリカ生活をしました。最初にアインシュタイン博士が、二人の手を固く握られて、涙をポロポロと流してあやまられました。「ヒットラーに殺されかけて、逃げて来たので、"原子の力を兵器に利用することもできるが―"ともらしたのが、学者の耳にはいり、あの原爆ができ、罪もない日本人を殺して申しわけない」と。私たちは「ア博士が悪いのではない。日本が戦争の仲間入りをしたから、いけなかったのです」と申し、「学者というものは何でも深く研究し、大きくしてゆく。広島、長崎に落されたのは即死20万人、後遺症による人かず知れず。そのうえさらに大きいものができると、地球の人類は全滅してしまう。今のうちに地球上で戦争の起らない仕組にしなければならない」とて、「当時平和運動のたくさんある中で、世界連邦の実現以外にない」という結論になりました。「国と国の争いは、世界の法律により、世界裁判所で裁く」というものです。こうすれば武器は無用の長物となり、みんなが生活のための努力にのみ、力をいれることになるでしょ う。
〉 私は「日本の尾崎行雄先生の言っておられる事と似てるな」と思い、飛行便を出し、「湯川秀樹とアインシュタイン博士が、こんな事をいっています。原爆の被害を受けた日本こそ、先頭に立って実現のため活動して下さい」と申しました。尾崎先生はふんぎりがつかれて、賀川豊彦先生たちと力をあわせて、「世界連邦建設同盟」をつくって下さったのが、日本の世界連邦運動の始りです。



金沢ひまわり平和研究室   筆者 平口哲夫