渡部治雄先生を偲ぶ

長年にわたり東北大学基督教青年会理事・理事長として渓水寮のお世話をしてくださった渡部治雄先生は,2015年1月5日に逝去。享年80歳。奥様の渡部昌子さんが発行なさった『私の山形物語 渡部治雄のあしあと』(2015年12月31日発行)に所収の拙文を改変して掲載します。以下に添付した写真は、2011年12月11日に渓水寮を訪ねた際、奥様が車を運転して迎えにきてくださり、ご自宅で歓談したあと、レストランでご馳走になったときに撮ったものです。渡部先生は、1996年に東北大学教授を辞職し、山県立女子短期大学学長に就任、2003年尚絅学院大学学長に就任、2009年同大学理事に就任なさいました。



 渡部治雄先生との交流
―学科志望と寮新築を中心に―

渡部治雄先生が日本大学第二工学部から宮城学院女子大学に転勤、東北大学基督教青年会の理事に就任なさった1965年に、私は渓水寮の寮生になりました。その翌年、アパートにお住まいの先生をお訪ねしたことがあります。赤ちゃんのオムツのにおいがするお部屋で奥様も交えて歓談したのですが、訪問の目的は憶えていません。そのとき、先生から文学部に入学した目的を問われて、歴史学系の分野に進みたいと答えたところ、ご自分の出身学科であるにも拘らず、西洋史はお勧めになりませんでした。実は私、高校で習った世界史と日本史のうち、どちらかと言えば世界史のほうに興味を持っていたので、西洋史を専攻しようと思って入学したのでした。しかし、実際に第二外国語としてドイツ語を選択し、さらにフランス語の授業も受けてみて、私のような語学力では、高校で世界史を教えることができたとしても、ネイティヴの研究者に負けないような西洋史研究者にはなれそうにないと悟りました。

入学当時、東北大学では、青葉山移転問題で揺れていて、学寮などで洗脳された連中がクラス会でスト決議を提案、入学して間もないのにそんな判断はできないと、私は保留の態度をとったのですが、賛成多数でスト突入。スト破りをするわけにもいかないので、川内から片平へのデモに同行し、文学部十号館前で待機中、旧車庫の中で縄文土器を整理中の学生の姿を見かけました。このとき、東北大学には考古学研究室があるということを初めて実感したのです。遺跡・遺物から歴史を明らかにする考古学ならば、たとえ語学力不足でもネイティヴの研究者に太刀打ちできるかもしれませんし、元々、考古学にも関心がありましたので、その道に進むことにした次第です。

渡部先生は『渓水 心の交流史』の90~91頁で、〈学会で来仙し寮に投宿中の平口哲夫元主事から「30分だけ時間を下さい」と電話があり、私の研究室に見えたのはいつだったろうか。「老朽化した寮をあのままにしていて良いのですか。寮生の心もすさんで来ます。新築すべきです。今日はこれだけを言いにきました」と言って帰られた。寮の汚さに馴れ親しんできた私は、平口君の真剣な忠言に大きな衝撃を受けた。以来、新築を本格的に考えるようになった。〉と述べられています。何の学会だったかは未確認ですが、東北大学基督教青年会会報23号の青年会日誌には1986年8月22日「平口哲夫兄来寮」と記されていますので、その日に渡部先生をお訪ねしたのでしょう。夏休み中に寮を訪ねたせいもあってか乱雑な状態になっていて、それが老朽化した建物と相まって「すさんだ」感じを醸しだしていたのです。少々きつい表現の具申とはいえ、「これだけを言いにきました」というのは、先生がとても忙しい中で会ってくださったことを慮ってのことです。私の不躾な意見を正面から受けとめてくださり、さっそく新築に向けての活動を始められた先生に改めて感謝申し上げます。

渡部先生に最後にお会いしたのは、2011年12月10日開催の宮城県考古学会に参加した翌日、寮を訪ね、奥様に車で迎えに来ていただいて、ご自宅近くのレストランでご馳走になったときでした。その後も体調がおもわしくないとのことでしたので、2015年3月16日に仙台で開催される恩師芹沢長介没後10周年記念集会に参加するついでにお見舞いに伺いたい旨、寮長の松本寛之兄にメールでお伝えした矢先、先生のご訃報が届き、残念至極に思った次第です。3月17日にご自宅で奥様からいろいろお話を伺った際に、この原稿の執筆を依頼されたのでした。


                               
      金沢医科大学名誉教授 平口 哲夫



金沢ひまわり平和研究室   筆者 平口哲夫