敦賀空襲と0歳児の体感記憶


1945年7月12日午後9時19分、福井県空襲警戒警報発令。同11時12分頃、来襲したB29爆撃編隊は市の東部に第1弾を落とし、周辺から中心部へと焼夷弾による波状攻撃を繰り返した。攻撃は翌13日午前2時頃までつづき、市街中心部は焦土と化した。『敦賀戦災復興史』(1955)によれば、この空襲による焼失家屋4,119 戸、罹災世帯5,057世帯、罹災人員19,300人、うち死者109名、負傷者201名を数える。7月30日には艦載機P47空襲(死者15名)、8月8日にはB29単機空襲(死者33名)があった。
(上図:『敦賀空襲・戦災誌』1985再録図より抜粋、付加)
敦賀空襲を伝える会『敦賀空襲・戦災史』(1985)ならびに氣比史学会『いま甦るみなとまち敦賀の町並み』(1988)には、母方の実家があった大内町小辻子(こづし)一帯の被災焼失復原図が掲載されていて、そこに祖父太兵衛の名を見出すことができる。空襲当時、祖父はすでに亡く、実家には祖母、母、兄、姉と私のほか、満州から帰国したばかりの伯父(当時獣医)、病のために里帰り中の伯母(母の長姉)がいた。B29 の編隊が敦賀方面に向かっているというラジオ放送が流れるまもなく、低く唸るような爆音が聞こえはじめた。このとき、「防空壕に入ったらだめだ。蒸し焼きになるぞ。どこか広いところへ逃げなさい」と沈着冷静に避難の指揮をとったのが伯父である。母は私を背負い、5歳になる姉の手を引き、氣比神宮めざして一目散に逃げた。田んぼの中を走る姉の目と鼻の先に焼夷弾がずぶりとのめり込んだ。普通の地面なら不発ではすまなかったかもしれない。この点、朝から雨がしとしとと絶え間なく降っていたことも幸いした。火の粉から身を守ろうと、神宮境内に接する木陰の水田に身を伏せた。空襲がほぼおさまったので田んぼの小屋に入って一息ついていると、伯父が町内の子供10 人ほど引き連れてやってきた。夜が明けてから、焼け出されずにすんだ知人の家に身を寄せた。やがてそこに祖母と兄(6歳)もたどりついた。実家は灰燼に帰してしまったが、家族全員の無事は何物にも代えがたい、不幸中の幸いであった。とはいえ、嫁入り先に戻った伯母はまもなく病死、祖母も父方の実家に身を寄せているあいだに病没した。

『いま甦るみなとまち敦賀の町並み』の復元地図を見ると、氣比神宮の境内に接して田んぼのあるところは、神宮の東側、津内174号から177号にかけての土地しかない。この点について母に確認したところ、「どこか広いところへ」という伯父の言葉でまず思い浮かんだのがこの神宮東側の田んぼであったという。市街中心部がほとんど焼失した割には死者が少なかったのは、投下されたのが爆弾ではなく焼夷弾であったこと、田地に囲まれた小都市であったために避難場所に恵まれていたことなどがあげられよう。

『敦賀空襲・戦災史』に再録されている犠牲者名簿によれば、7月12日の夜間空襲で亡くなった大内町内の犠牲者5人はすべて、小辻子の小路をはさんで平口家の斜め向かいに住んでいた松村表具店のご家族である。手記によると、ただ一人生き残った松村文雄さんは、警防団員として家族とは別行動をとっていたが、空襲がおさまってから自宅に戻ってみると、防空壕の中で奥さん(42歳)と3人のお子さん(15歳、11歳、5歳の3姉妹)が無残にも焼け死んでいたとのことである。ご家族7人中6人が犠牲になったと書かれているが、そのうちの一人亀吉さん(68歳)のお名前は前述の名簿に掲載されているものの、残る一人谷川定子さんのお名前は名簿にはない。

私は子供のころ、よく悪夢にうなされた。低く唸るような音、息苦しさ、激しい揺れ。それは母に背負われ、頭からこっぽり綿入れをかぶせられて逃げ回った0歳児の体感記憶ではないだろうか。父の実家のある丸岡に向かう際、列車の窓が割れていて、トンネル通過時に煙りで真っ黒になったことも覚えているような気がする。このような「想い出」の多くは、幼いころから幾たびも聞かされてきた話が二次的体験となって、あたかも直接見たり聞いたりしたかのように思われるのかもしれない。しかし、そればかりではないのではと思い直すようになったのは、胎児の記憶についてのドキュメンタリーをNHKテレビ放送で見てからのことである。胎児のときの記憶さえ潜在的に残っているのならば、0歳児のときのことを憶えていても不思議ではない。

母の話を通じて、敦賀空襲のことばかりでなく、軍国日本の愚かしさを子供ごころに感じながら育ってきたように思う。学校で歴史を習うようになってからは、昭和20年の悲劇的結末がもたらされた理由について思いめぐらすようになった。考古学研究第42巻第3号(1995)の「会員つうしん」にも書いたことだが、高校生のとき、新学期に歴史関係の教科書を手にすると、まず原始と昭和を読んでしまい、それから残りを順次読んだものである。高校のときの日本史の担当教諭、故浅香年木先生の授業は、毎回爆笑につぐ爆笑、何がそんなに面白いのかと、別の教室の生徒が抜け出して聴きにくるほどであった。その先生でさえ、第3学期、「ほんとうは重要なのだが」と昭和史にほとんど時間をさくことができないまま授業を終えることを申しわけなさそうにしておられた。昭和史については、父(専門は数学)が購入した『世界の歴史』や『日本の歴史』を読んで学ぶことが多かった。浅香先生のように生徒を爆笑させるまでには至らないが、人類誕生の時点からにせよ、大航海時代からにせよ、とにかく現代までを視野に入れた歴史・人類学系講義を心がけている。
1974年、鳥浜貝塚見学に自家用車で行くついでに、生まれ故郷を初めて訪れた。近縁の親戚はもはや誰も住んでいないことから、母の幼友達を訪ね、ご主人に案内されて祖父母の墓参りをした。赤い彼岸花が咲き乱れていたのが印象的であった。1985年4月20日、気比史学会主催の市民歴史講座で「パレオリスハンター〜旧石器を追う人々〜」と題して講演、1994年7月15日にも同講座で「古代の捕鯨」という話をした。左掲の写真は、その際に撮影した氣比神宮境内「空襲で焼けた松根」。

金沢ひまわり平和研究室  随筆 筆者 平口哲夫