東北大学基督教青年会館と大島正隆



東北大学基督教青年会館(渓水寮)
(1966年頃)


1965年(昭和40)に東北大学文学部に入学した私は、自炊生活を1カ月、下宿生活を2カ月ばかり送ってから東北大学基督教青年会館(渓水寮)の寮生となった。この寮は、1936年(昭和11)に当時東北帝国大学法文学部長であった石原謙先生(1882-1976)が、仙台市北三番丁上杉の一角にキリスト者学生のために私財を投じて建てられたのが始まりである。しかし、終戦直後に米軍の将校宿舎として接収され、1952年(昭和27)学生寮として再出発したということであるから、寮の建物自体が戦争体験をしているといえよう。そういえば、教養部のあった川内の校舎は、旧兵舎を転用したものであり、進駐軍に接収された時代の面影を多く残していた。


大島正隆(1909−1944)

古谷雄一郎氏が渓水寮所蔵写真をデジタルカメラで撮影、Eメールで送ってくれたものを活用(2000.3.14)


渓水寮のホールには石原謙先生と大島正隆先生の写真が掲げられていた。石原先生の写真は正面暖炉の上に、また、大島先生の写真は台所に通じるドアの上に飾ってあった。寮生はその下で朝拝をし、食事をし、諸集会をもったのである。しかし、大島先生については寮の関係者から、国史学を専攻し将来を嘱望された秀才であったが惜しくも早世されたということ、また、二高時代に治安維持法違反に問われ検挙されたことがある、ということなどを伺った程度で、詳しいことを知らないまま学生・院生時代を過ごしてしまった。

昭和49年(1974)3月、すでに東北大学を定年退職され、東北学院大学教授に就任しておられた恩師の伊東信雄先生(考古学)に離仙の挨拶をしようとご自宅を訪ねた。そのとき、私が基督教青年会館に六年間いたという話をすると、先生ときよめ夫人は意外に思われたご様子だった。大島先生をよくご存知だったからである。

昭和61年(1986)8月、東北大学教養部におられた渡部治雄先生を訪ねたとき、国史学専攻の先輩である入間田宣夫先生(東北大学東北アジア研究センター教授)にばったり出会った。入間田先生は「伊東先生と一緒に大島正隆の遺稿集をまとめている最中です。寮に飾ってある写真をいずれ借りにいきますのでよろしく。大島はすごい人ですよ。短期間であれだけの功績を残したわけですから。舌を巻きますね」と感心していた。


大島正隆著 『東北中世史の旅立ち』(1987,そしえて)

翌年4月、伊東先生は不帰の人となられた。私は奥様宛に伊東先生についての思い出を綴った弔電を送ったが、その7年後の平成6年(1994)、奥様から思いがけず手紙と大島正隆著『東北中世史の旅立ち』(そしえて、1987)が送られてきた。七回忌に際して私の話を思い出してこの本を送ってくださったのかと思ったが、お手紙によるとそうではなく、東北大学文学部同窓会名簿に東北大学基督教青年会と記されているのを見てのことだという。以下、大島先生について書かれたお手紙の一部を紹介する。

「戦前左翼の運動をなさっていて、旧制二高を退学なさったのですが、その後、主人の勧めで文検を受けられて文学部に入られ、国史を専攻された方です。熱心なクリスチャンのご家庭のご長男で実に立派な方でした。主人がなくなった時も私は、大島さんが生きていて下さったらよかったのに、と一人で申しておりました。この本は大島さんを世に紹介するための本ですが、主人は最後の校正を見ずに亡くなったのです。戦後、考古学ブームで忙しくて大島さんの業績紹介をする暇がなかったことを申訳なく思っていて、大島さんが亡くなられて四十年の記念会の後、国史のお弟子様方のお手伝いをうけて出版することにしたのですが、出版を見ずに終わったものです。」

お手紙には、河北新報昭和62年(1987)6月22日号と社会新報同年7月31日号に掲載された書評のコピーが添えられていた。河北新報の書評は、本書編集者の解説を要約した内容であるので特に問題はない。しかし、社会新報の書評で、「大河ドラマ『独眼流正宗』人気は様ざまな歴史書≠発刊させているが、もしテレビの影響で本書がまとめられる契機を作ったとすればNHKの功績は大きい」と書いてあるのは妥当な指摘とはいえない。本書は、テレビの大河ドラマが契機となってまとめられることになったのではないからである。大島先生が大学に入学した年に同大学文学部講師(考古学担当)に就任して親交をもたれた伊東先生が、晩年、ようやく念願の論文集成に着手する余裕を持たれたのが、たまたま正宗ブーム≠フ時期に重なったということなのである。むしろ、ドラマの骨格をなす歴史研究が大島先生によってすでになされていたと言うべきであろう。社会新報の書評も、「多く出された正宗類書のなかで、もっとも歳月に耐えつづけていくのは本書をおいて他にない」と高く評価している。なお、本書「まえがき」には次のように書かれてある。

「本書の編集にあたったのは、入間田宣夫、遠藤巌、大石直正、小林清治に伊東信雄の五人である。伊東を除いて、他の四人は生前の大島を知らないが、(中略)研究をすすめる過程で大島の論文に出会い、その魅力にとりつかれ、この忘れられた歴史家を現代によみがえらせたいと考えるにいたったのである。」


この本には、大島先生の実弟、横浜市立大学医学部大島智夫教授が書かれた「茨の冠―大島正隆の生涯―」(高橋三郎主筆『十字架の言』255号に掲載されたもの)が再録されている。これによると、大島は明治42年(1909)3月5日、台湾総督府研究所技師正満・令子の長男として台北で生まれた。昭和3年(1928)4月第二高等学校理科一組に入学、山岳部で活躍しただけでなく、社会主義運動にも情熱を燃やした。昭和6年(1931)満州事変勃発後、東北地方は不況のどん底に陥ったが、それを紛らわすため「満州こそ日本の生命線」と宣伝する指導層に反感を抱く二高生も少なくなかった。そのグループと右翼学生との対立が暗々裏に激しくなり、学校側は右翼学生の肩入れをした。昭和7年(1932)校友会理事選挙に学校側が干渉、これを弾劾する学生たちがストライキに入った。ストライキそのものは年内に解除されたが、翌年1月、特別高等警察はストライキ責任者・扇動者として学生12人を治安維持法違反の疑いで検挙した。大島はその槍玉にあげられたのである。学校側は即刻12名を退学処分にした。やがて10名は保釈となったが、大島ほか1名は未決拘留された 。留置場では言語に絶する拷問が加えられたにもかかわらず、大島は仲間の不利になることは一切自白しなかった。本人は一言もこのことについて触れたことはないが、保釈もらい下げに出向いた叔父が看守から聞いた話だという。

後年、先生は母親が獄舎に新約聖書を差し入れた日こそ新たに生まれ変わる記念すべき日となったと、母親宛の葉書で回顧している。同年中に公判が開始され、執行猶予で釈放されたとはいえ、山岳部で鍛えた身体は見る影もなくやせ衰えていたという。

「茨の冠」の末尾に伊東先生が次のように書き添えている。「大島の家庭は模範的なクリスチャンホームであるといわれていた。それは札幌農学校の第一回卒業生で、クラーク博士の直接の教えをうけた祖父正健にはじまる。内村鑑三の『余は如何にして基督教徒となりし乎』に耶蘇坊主≠nとして記載されているのが正健であって、同期生中もっとも熱心なキリスト教徒となり、札幌農学校卒業後は母校の助教授、教授となり、札幌独立教会を創設して、その牧師となったひとである。」


昭和10年(1935)、塚本虎二の聖書講義集会、ギリシャ語研究会に参加し、また、柳田国男に師事し民俗学を学んだということに注目したい。翌年、文部省教員検定試験に合格する。同年4月東北帝国大学法文学部に入学し、国史学を専攻、古田良一教授、喜田貞吉講師に師事する。また、同大学基督教青年会で石原謙教授の薫陶を受ける。昭和14年(1939)3月に東北帝国大学を卒業し、4月同大学国史研究室副手となる。この間に東北地方の山海の民俗に関する文章を書いている。いまエスノ・アーケオロジーの分野で注目されているマタギについても詳しく述べている。

「まえがき」には、「山を愛し、無教会派の基督教徒として神を信じ、人を愛したこの青年の人柄とすぐれた才能は、彼に接する人を惹きつけずにはおかなかった。治安維持法違反という、当時としては決定的な前歴にも拘らず東北帝国大学に入学できたのは、当時の法文学部長石原謙教授の理解によるところが大きかった」とある。大島先生が歴史学を志すにいたったのは、柳田国男の民俗学との出会いによるところが大きかったが、この時代に社会主義運動を行い、弾圧をうけて挫折を味わった人たちには、柳田の民俗学に心を寄せ、常民の生活と心の探求を志した人が多かったという。

昭和10年(1935)から昭和12年(1937)までの間に発表された「飯豊・朝日の猟人達」「飯豊山と太与治のこと」(『山小屋』38〜40、43)、「長者ヶ原雑記」(『仙台郷土研究』7-12)は、いかにも登山に熱中した人らしいみずみずしい感性と洞察力で書かれている。大島先生は、文書による歴史研究に先んじてフィールド調査による民俗研究をこなしておられた。私は、フィールド調査を重んじる考古学を専攻し、最近は民族考古学的な研究に傾斜しているだけに、本書を読んで専門的にも大島先生への関心を深めたのである。本書掲載「大島の学問について」(小林・大石・入間田)は、飯豊山麓の長者ヶ原における半猟・半農の自治共同体についての考察から学ぶべき点はまことに大きいとして、以下のように述べている。

「第二次大戦後における東北農村史の研究がこの大島の論考から学ぶことがあったならば、より大きな稔りがもたらされることになったのではないか。すくなくとも、中世農村史に関するかぎりは、その感が強い。」

大学を卒業した昭和12年(1937)頃、大島先生の学問的関心が民俗学から狭義の歴史学へと移っていく(卒業論文「仙台領農村の成立展開過程」)。昭和14年(1939)に発表された「海上の神火」(『文化』617)は、前年に行われた柳田国男の海村調査に参加し、島根県隠岐島や岩手県九戸郡の海村で民俗調査を行ったことが反映しているが、単に山から海に眼が転じただけではない。隠岐島の焼火(タクヒ)信仰が日本海海運の発展にともなって津軽、さらには松島湾にまで及んだことが追求されていて、海上の神火を日本海海運史との関連で解明しようとする志向が伺われる。民俗調査の成果を歴史的に解釈する場合、その解釈・仮説は当然のことながら歴史学的方法によって実証されなければならない(民族学を考古学に援用する場合も同様である)。この論考の末尾に述べられた「一国民俗学の限界」は世界的視野による民族学に比較しての発言であるが、歴史研究としての民俗学の方法的限界についても大島先生は自覚しておられたに違いない。昭和15年(1940)に秋田家文書の整理を担当することになったのは、文献史学の真髄を体験する絶好の機会であり、中世史研究にひ たすら進むことを決定づけたといえよう。

昭和16年(1941)4月から基督教青年会寄宿舎に入り、後輩の指導にあたる。それからわずか三年の間に、東北地方の中世史に関する珠玉の論文6編を発表、未発表原稿1編を残した。


「大島の学問について」によれば、「鎌倉時代の奥州留守氏―幕府奥羽統治の一考察―」(『文化』9-九、1941)は、第二次大戦後、石井進先生によって本格的に展開される、幕府と国衙の関係についての研究の先駆をなし、徹底した史料批判と歴史認識の深さを示している。発表誌の関係もあって、国衙・国衙領ならびに在地領主の研究関係では忘れられた存在であったが、この分野の古典として位置づけられるという。「奥州留守氏考―留守系譜と余目記録を中心に―」(『仙台郷土研究』13-4、1942)では手堅い系譜考証が行われ、その結論は現在も通説的位置を占めている。しかも、系譜考証の結果をふまえて、留守氏内部の伊達派と大崎派の対立、伊達氏の入嗣強行の史実を浮かび上がらせている。歴史を一方的に勝者の側から見るのではなく、敗者の視点に立ちながら、隠れていた権力闘争の存在を明らかにするという姿勢が、この論文においても遺憾なく発揮されている。

「奥羽に於ける近世大名領成立の一過程―最上義光と伊達政宗―」(『文化』8-2、1941)、「北奥大名領成立過程の一断面―比内浅利氏を中心とする考察―」(『喜田博士追悼記念国史論集』1942)、「伊達政宗の小田原参陣」(未発表)ならびに「慶長五年の奥羽諸侯―関ヶ原役の歴史的意義―」(歴史地理』82-5・6、1943)は、いずれも戦後15年以上経過してからようやく継承論文が現れるほどの先駆性を備えていた。最後の発表となった「慶長5年の奥羽諸侯」は、大島先生が既発表論文において手がけた諸侯の動向を集約し、奥羽の中小諸侯が中央権力の圧力を借りて初めて近世的な支配体系を整えることができたとする理論的到達点を示している。1960年代に藩制史研究において提起された視座が、実に20年早く大島先生によって見すえられていたことになる。

昭和16年(1941)、指導教授古田良一先生の名義で発表された「秋田家文書による文禄・慶長初期北国海運の研究」(『社会経済史学』1-3・4)は、大島先生の論文のなかで最もよく知られ、かつ引用されてきた。秋田家文書というのは、福島県三春の旧藩主秋田子爵家の文書を指し、昭和14年(1939)に東北帝国大学に寄託され、奥羽史料調査部において整理が進められたものである。この論文は、そのうちの海運関係史料を中心に近世初期北国海運の一端を考察している。末尾には、「本論文は文部省精神科学研究奨励費の補助による研究であって、便宜上予の名を以て発表したが、余は唯研究の大綱と方針を指示したのみで、文学士大島正隆君の努力により纏め上げられたものである」と明記されている。


本書が編集者以外に学会でどのように評価されているかを客観的に示す文献について、入間田先生にご教示願ったところ、石井進先生による新刊紹介(史学雑誌96-12、1987)と網野善彦先生による「ある歴史家の生涯―大島正隆『東北中世史の旅立ち―』」(『列島の文化史』6、日本エディタースクール出版部、1989)のコピーを送ってくださった。

石井先生は、大島先生の卒業論文において、「民俗学と歴史学がいかなる展開を見せたのか、大いに興味をひかれる点であるが、残念ながら本書でそれを知ることはできない」と述べている。私も同じ感想をもったが、入間田先生のお手紙によれば、大島先生が矢内原忠雄先生に献呈した卒論を2年ほど前に入手し、東北大学図書館に収めたということであるから、今後、これについても学史的な検討がなされることを期待したい。また、書評の末尾において、「石母田正氏は大島氏と二高入学は同年であり、1930年、校友会雑誌に発表した論文によって雑誌は発売禁止、石母田氏は無期停学処分を受けた。その後の石母田氏の学問と大島氏の学問とを比較しつつ本書をひもとくことも一つの読み方であろう」と、興味深い提案をしている。

網野先生は、書評の中ほどで次のように述べている。「歴史学の研究に即していえば、奥州留守氏に関連して、早くも伊東による岩切城址、東光寺境内の板碑群などの考古学的な発掘成果に着眼している点、系譜、家伝、伝承的な記録を縦横に駆使し、江戸時代に入ってからの記録をも渉猟していることなど、現在もなお文献史学が十分に消化しているとはいい難い諸資料を大島は広くとりあげ、その歴史像を構成している。また、民俗学の調査についてみても、田畑、山、海、川、温泉等、村人の生活そのものの多様な姿に、こだわりのない目を向けた大島のレポートは、恐らくこの種の民俗誌として、群を抜くすぐれたものといえるのではなかろうか」と。中世遺跡についても大々的な発掘調査が全国的に行われている現在、まさに大島先生の視野と視座、厳密さと的確さ、総合力と叙述力などが歴史研究に求められているといえよう。


昭和18年(1943)に中国・朝鮮の渤海国遺跡視察旅行に出かけたが、帰国後、健康を害し、9月以降、千葉県勝浦に転地療養。昭和19年1月22日、療養先において34歳という若さで逝去された。

渤海使節を接待した客院跡の候補地、石川県富来町福浦港で、私は縄文時代遺跡の発掘調査に従事したことがある。大島先生が戦後もご健在だったならば、研究対象を古代にまで広げ、いま流行の渤海国研究にも貢献されたことであろう。

大島先生よりも一歳年上の伊東先生は、大正14年(1925)4月に第二高等学校文科乙類に入学、大島先生が同高等学校に入学した昭和3年(1928)4月に東北帝国大学法文学部(国史学専攻)に入学されたが、伊東先生も二高山岳会のメンバーであった。しかも、大島先生が療養・逝去された前後に伊東先生も肺結核のため東北大学付属病院に入院(1942〜43年)、昭和19年(1944)4月に大島先生のご尊父正満氏を仙台に迎えて行われた追悼式の2ヵ月後に再入院、昭和21年1946)には胸郭成形手術を受けておられる(「伊東信雄先生年譜」『伊東信雄先生追悼考古学古代史論攷』1999)。晩年に至るまで、伊東先生の胸中には、夭折した旧友に対する言い尽くしがたい思いがあったに違いない。

昭和20年(1945)4月4日生まれの私は生後百日目にB29爆撃編隊による空襲を“体験”し、生家は灰燼に帰した。毎年8月15日に開催される終戦記念の回数は、私の年齢でもある。父親よりも1歳年上の大島先生が天に召されたのは、私が生まれる前年のことであった。それから半世紀以上が過ぎ、歴史教科書・靖国参拝・有事法制問題で揺れる昨今、大島先生が、国家の過ちの犠牲になって命を縮めながらも、徹底した史料批判と歴史認識によって中世史研究に先駆的な業績を残された、その生き方を顧みることに深い現代的意義を感じる。

(平口哲夫,2003:「追悼 大島正隆先生」『東北大学キリスト教青年会七十五年誌』,309-316,改変)

【追記】

2008年12月、入間田先生から下記論文のコピーが送られてきた。
 柳原敏明,2008,「東北帝大入学前後の大島正隆」,東北中世史研究会会報,18:1-16.

この論文では、大島正隆が「創始者でありキャップ」であった二高共青班の一員で、1933年4月に退学処分となった大川(旧姓五島)芳夫氏にインタビュー(2006年)したときの様子が紹介されている。また、治安維持法違反事件で検挙され、「転向」した学生の「修養団体」として発足した尚和会についての詳しい記述がある。さらに、未公表の卒業論文「仙台領農村の成立展開過程」についても解説がなされている。


東北大学基督教青年会館は、1990年(平成2)大塒(おおとや)町に新築移転を完了。その経緯については、渡部治雄著『渓水 こころの交流史』(南窓社,1998)に紹介されている。

東北大学基督教青年会館 渓水寮
〒982-0027 仙台市太白区大塒町8−1 
電話 022-249-3564

入寮選考については上記にお問合わせください。
現在、女子学生や他大学の学生・院生の入寮も認められています。

金沢ひまわり平和研究室  随筆 筆者 平口哲夫