天徳院幼稚園中退と若草教会



1955年当時の若草教会
(同教会パンフレットから作成)
トマス・クレイ・ウイン設計
1891年(明治24)建造の会堂を移築
金沢市立野田中学校の住所表示が十一屋町から若草町に変更になったのは、十一屋町の南西側に新たな住宅団地ができて、その団地に若草町という名称がつけられたからである。それではなぜ町名に「若草」が選ばれたかというと、野田中学校の斜め向かいに日本基督教団若草教会が建っていたからである。


若草教会の前身、平和町教会は、1950年(昭和25)に平和町内の旧陸軍工兵隊将校集会場を借りて開設した平和町伝道所から発展したものである。さらに平和町伝道所は、1947年(昭和22)に金沢殿町教会青年会委員会が平和町保育所の一室を借りて開催した「出張日曜学校」に由来する。そこで若草教会は、この伝道開始をもって同教会の起点とし、1997年(平成9)に『若草教会伝道開始五十周年記念誌 1947年−1997年』を刊行している。

平和町教会は、1953年(昭和28)に野田幼稚園を開園した。私の3歳年下の弟はこの幼稚園に通った。私はそれをうらやましげにながめていた。というのは、私ども家族が野田平和町(現在の平和町)に引っ越す前に住んでいたのは、金沢市小立野の旧金沢工業専門学校(金沢大学工学部の前身)敷地内にあった官舎(とは名ばかりの長屋)であったが、そこから1カ月ばかり通った、由緒あるお寺の幼稚園とはだいぶ様子が違っていたからである。5歳のときに私は家族みんなから幼稚園行きを勧められた。気が進まなかったが、「おやつの時間があるよ」という甘い言葉にのせられて通うことにした。円満なお顔をした年配の和尚さんが園長さんで、幼稚園の生活はまずきちんと正座して合掌することから始まった。「われらは仏のこどもたち、苦しいときも悲しいときも」という園歌も、出だしだけだが今でも覚えている。そうした宗教的な雰囲気は別にいやでもなんでもなかったが、一つ期待が裏切られたことがある。なんと、おやつが全然出なかったのである。そうなると折り紙も切り紙も面白くなくなってしまう。おまけに、帰路、お寺から八幡神社に向う畔道で、必ずといっていいほど「いじめっ子」が出現するのである。この子たちは、幼稚園に行く年ごろだが行かせてもらえないらしく、「わりゃ、幼稚園なんか行っとるがか、ほんなもん行きたくないわい」とか言いながら突ついてくるのである。それを見かねた年長組の女の子が私の手をひいて八幡神社のあたりまで付いてきてくれることもあったが、それを見てガキどもが「なんじゃ、メンチャとなんか手つないで」とはやし立てるのである。あるとき、いじめっこに出くわしたので、あわてて田んぼの畦道逃げ込んだところ、足を踏み外して田んぼの中に落ちてしまった。泥だらけになった長靴を八幡神社の境内で洗っていたところ、弟をおんぶして買い物から帰ってくる母に出会った。そのときは何も言わず、おもしろくないから幼稚園をやめたいと家族に告げたのは帰宅してからのことである。幼稚園の行き帰りに、おもしろくなさそうに上履きの入った袋を前後にブランブランさせながら歩いている私を見ていたので、そう言い出すだろうと思っていたとのこと。兄や姉は、そんなことでは小学校生活に適応できるか心配だみたいなことを言っていたが、5歳児としてはそんな先のことよりも今やめることのほうが切実なので、結局1カ月ばかりでやめることになった。それに比べて、弟の幼稚園は明るい雰囲気でおやつもいただけるところだったのである。

この「おやつ」のある無しには、お寺と教会の違いよりも、昭和20年代における経済状況の変化によるところのほうがが大きいのではないか。それが証拠に、私が小学校に入るときは新品のランドセルは買ってもらえず、6歳年上の兄が使用したズッグ製ランドセルを茶色に染め直したものを出された。それはつい先日まで押し入れのなかでペチャンコになって黴が生えていたものである。新品でなくてはいやだとダダをこねる私に、それでは中学生の兄が肩から下げているような布製のかばんを作ってあげるからそれでどうかと母が言い、私も家の懐具合が分からないわけではなかったから、うんそれならいいと返事をして一件落着。弟の場合はピカピカのランドセルであったから、その時またもや私はほろ苦い思いをさせられたのである。話が横道にそれてしまったが、弟が幼稚園でもらった新約聖書を読んだのが、私とキリスト教との最初の出会いであった。ただし、読んだと言っても、マタイ伝の第1章の最初に長々と記されている人名の羅列に面食らって、それ以上は読み進まなかった。弟がキリスト教系の幼稚園に通っていたことから母も教会の礼拝や家庭集会に出席することがあったが、浄土真宗が心底身についている母にとって、キリスト教は好意的に受けとめることはできてもそれ以上のものとはならなかった。

私が教会に行くようになったのは中学2年になってからのことである。1955年(昭和30)に十一屋町に移転した平和町教会は、金沢教会が石浦町から柿木畠に移転するのを機に由緒ある旧会堂(ウイン記念会堂)を十一屋町に移築してもらい、若草教会と改称、野田幼稚園もこれにともない若草幼稚園に改称した。若草教会は翌1966年(昭和31)に初めて専任の担当教師として加藤常昭牧師を迎えている。私はそのすぐそばに建っている野田中学校(本校)に第2学年から通うことになった。通いはじめて間もなく入部した演劇部の1年先輩に藤田英典さんがいた。劇の練習の合間に教会の建物が目についたので、おのずと教会のことが話題となり、すでに教会学校の生徒だった藤田さんに誘われて教会に行くようになったのである。特別悩みがあったわけではないが、演劇部では役柄をめぐって人間論・人生論的な話し合いをすることが多かったから、その流れで教会に行く気になったのである。鴎外の「高瀬舟」も話題になったが、これは現在問題になっている安楽死を先取りしたテーマといえよう。洗礼は1962年(昭和37)高校2年のときに若草教会二代目の森野善右衛門牧師の手から授けられた。
特別の霊的経験があったからではなく、人生たとえ紆余曲折をへても必ず軌道修正してくれるような指針をえたいという、入門的な志で受洗を希望したのである。

金沢ひまわり平和研究室 随筆  筆者 平口哲夫