金沢市立野田中学校50年史



50周年記念会員名簿に掲載された
野田中同窓生の金沢医科大職員有志による広告

8期 (匿名)、11期 山口宣夫、12期平口哲夫
15期 中谷 渉、17期 坂尾光一、22期 島 智一
25期 坂本 保夫、39期 黒瀬 望

金沢市立野田中学校は、昭和24年(1949)に開校した。すなわち、平成11年(1999)が50周年にあたる。十一屋町・菊川町・新竪町・富樫の4小学校下という広範な通学区を擁し、しかも戦後大陸から引揚げてきた人々が旧兵舎などに住み込んで新たにつくりあげた平和町も区域に含まれていたから、開校当初から生徒数が多く、同窓会名簿によれば、第1期生497名、第2期生600名、第3期生541名、合計1,638名を数える。

校舎は、野田町チ180番地にある旧陸軍騎兵隊兵舎を改造したものがあてがわれた。ところが翌昭和25年(1950)、警察予備隊の創設に間連して金沢高等師範学校に校舎の大半を譲渡しなけらばならなくなったため、紫錦台・兼六・小将町・高岡町の4中学校に分教場を設置した。昭和28年(1953)には、新校舎(本校)を十一屋町ヨ40番地(現所在地、のちに若草町1番23号に名称変更)に建設し始め、第1期工事終了とともに旧校舎を南分校とした。

昭和34年に十一屋・泉野・富樫の3小学校下を本校の通学区と定め、同年5月に菊川・新竪は城南中学校へ移転することになった。この新設された城南中の第1期生は野田中の第11期生に相当する。私(第12期生)は昭和33年に野田中学校に入学、第1学年のときに南分校で学び、第2学年で本校に移って2ヶ月足らずのうちに城南と分かれるはめになったわけである。つまり、旧兵舎(南分校)で学んだ最後の野田中生ということになる。第9期生501名、第10期生978名、第11期生757名、合計2,236名であることからもわかるように、城南と分かれる前の野田中の生徒数はまさに極限状態にあった。

昭和49年(1974)に伏見台小学校下が本校の通学区に加わったが、昭和56年(1981)には高尾台中学校新設に伴い、十一屋・泉野・長坂台(新設)小学校下が本校の通学区となった。なお、現在の校舎は昭和47年(1972)第1期工事の開始から昭和56年第4期工事の終了までの間に建設されたものである。

私が小学生から高校生のときまで住んでいた金沢大学官舎は、旧兵舎時代の野田中校舎に隣接していた。金沢高等師範学校に使われた旧兵舎は間もなく金沢大学附属高等学校に継承されたので、旧兵舎時代の野田中と附属高校とは運動場をL字形に囲むように併存していた。野田中がこの地を引き払ったあと、附属高校の校舎の新築工事が始まった。ところが、泉中学校が火災で焼けてしまったため、私がちょうど3年生のときに、かつて野田中が使っていた建物を泉中が仮校舎として再利用することになったのである。おかげで夏休み中、勉強をしているさなか、建設工事のブルドーザーの唸りと泉中のブラスバンドの練習音に悩まされることになった。その経験を「騒音」と題して作文に書いたところ、これが全国作文コンクールに入選したのだから良いような悪いような話しである。長年住み慣れた官舎は私が仙台で院生をしている間に取り壊され、跡地に附属高校のプールが建設された。

以上のような野田中学校の開設・合併・分離の過程には、戦後日本の歩みが色濃く反映している。旧兵舎時代の野田中・附属高校の広い敷地は、子供たちの恰好の遊び場となっていた。その周辺は、その名の通り野田が広がっていて、犀川から野田山まで駆けずり回って遊んだものである。住宅に転用された多くの旧兵舎は暁寮とか睦寮とか、いろいろな名前で呼ばれており、その寮の長い廊下も遊びに利用された。幼児から中学生まで大勢がいっしょになって遊ぶ光景がいまでも懐かしく思い出される。

創立40周年記念式典が行われた平成元年(1989)の翌年、私は同窓会の会長に選ばれた。そして、平成6年(1994)に45周年記念総会・懇親会を開催した。これを機に会長を辞退するつもりであったが、後継者をみつける暇がないまま、ずらずらと現在に至ってしまった。結局、平成10年度の役員会で、50周年記念事業が終るまでに私より若い世代から次期候補を出していただくという約束のもと、当面会長にとどまることになった。

平成11年3月(第50回)卒業生は327名、これまでに26,594名が卒業したことになる。
これはたいへんな数である。いずれ戦後史と自分史を重ね合わせながら金沢市立野田中学校50年史を考察してみたい。

野田中学校創立50周年記念同窓会
会員名簿 1999
金沢市立野田中学校同窓会


金沢市立野田中学校
創立50周年記念誌 1999


金沢ひまわり平和研究室 筆者 平口哲夫