気まぐれ日記(1)


目次


2000年4月13日(木)

金沢医大平成12年度第1学年宿泊研修

4月11日から2泊3日、志賀町にある「いこいの村能登半島」で開催された第1学年宿泊研修から帰ってきた。この研修は主として新入生を対象としたオリエンテーションの一環として平成9年度から新たに行われるようになったもので、私は平成9年度、10年度そして12年度と通算3回目の参加である。上欄に掲載した写真は、12日午後のひととき、レクリエーションとして行われたソフトバレーボールのひとこまである。第1学年のグループ(手前)と教員Bグループ(本学卒業の若手医師たち)とが対戦している。3ブロックに分かれてのトーナメントで、第1ブロックでは教員Bグループ(一般教育担当)が、第2ブロックでは教員Bグループが、そして第3ブロックでは第1学年のグループがそれぞれ優勝した。私は、五十肩と鼻炎を理由に見学だけのつもりであったが、人数が足りないとかで教育Aグループにかつぎ出されてしまった。ところが意外とうまくプレーすることができたものだから、「なんだ、五十肩とか何とか言いながら結構やるじゃん」と世話役の先生からお褒めともけなしともとれる言葉をいただいた(空振りしたときに右肩を走った激痛には正直まいったのであるが )。それにしても、いまや自分の息子・娘よりも若い学生たちもいるのに、我々のグループが優勝してしまうのは、先生たちの迫力がすごいからか、それとも学生たちの意気込みが足りないからか、ちょっと考えさせられてしまう。それはともかく、我々と、教え子の医師たちと、現学生たちとが和気あいあい交流するさまは、なかなかいいものだ。


2000年3月23日(木)

金沢医大第23回卒業式と記念パーティー

 
毎年、入学式・歓迎会と卒業式・記念パーティーには、つとめて出席するようにしている。第1学年で教えた学生たちの卒業を祝する会に出席することができるというのは、当の学生たちにとってはもちろんのこと、私にとっても実にめでたいこtだ。お互い元気でこの日を迎えることができたのだから。6年間というのは長いようで、過ぎてしまえば瞬く間の感がする。見覚えのある学生たちを見ると、「エッ、君たちもう卒業なの!」と思わず声が出てしまう。聞きもしないのに「1年留年しまして」などと言うのがいるが、そんなことはもうどうでもよい。終わりよければすべてよし、である。卒業おめでとう!国試合格を祈る!


2000年3月14日(火)

卒業式と「君が代」斉唱

足掛10年同窓会の会長をしてきた出身中学の卒業式に出席。その際、いささか気になったのが「君が代」斉唱である。この土地柄では混乱を生じる心配はないかもしれないが、自分はいったいどうしたらよいのか。歌うこと自体は構わないけれど、賛成しかねる主張に屈するとか、組したとか見られたくはない。結局、堂々と歌いはするが、そのように行動した理由を機会あるごとに表明することでバランスをとることにした。

「君が代」は平安時代の和歌に由来し、家人の長寿を祝う歌だった。だから、この歌の「君」は、もともと、天皇に限定されていたわけでなく、「あなた」という二人称にすぎなかった。サンフランシスコ対日講和条約の発効した年に小学校に入学した私は、担任の先生から「君が代の君はあなたであり、国民一人ひとりを意味するのですよ」と習った記憶がある。その先生の説明は、「君が代」の由来に基づくものであったかどうかはともかく、日本国憲法にふさわしい解釈であったと今にして思う。小渕政権は、国旗・国歌の法制化に当って、「君が代」の君は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である天皇を意味する」という見解を発表している。しかし私は、天皇によって象徴された日本国民一人ひとり」はもちろんのこと、広く世界の人々をさすと理解したい。陛下も国民とともに、また世界の人々とともに口ずさむことのできるような歌であってこそ、これからの日本の国歌にふさわしいのではないだろうか。「日の丸」掲揚・「君が代」斉唱の推進派も反対派も、これを踏み絵にするようなことはせず、もっとおおらかに対応してほしい。 日の丸・君が代に対する拒否反応は、今後も日本が現憲法の基本的精神にそって歩みつづけ、国際的に名誉ある評価を得るならば、いずれおさまることであろう。

なお、生徒たちの歌声は、「君が代」よりも校歌や卒業歌のほうがハツラツと会場に響き渡っていたように感じられた。また、最前列で、一人のたくましい男子生徒が顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら卒業歌を歌っていたのが印象的であった。総じて見事な卒業式であった。それにしても会場の寒いことよ。退席するころには体がすっかり冷え切ってしまっていたが、心はほのぼのと温まっていた。


2000年3月6日(月)

野良猫シロスケ

帰宅時に、ニャーゴはどうしているかと思っていつもの場所を覗いてみて驚いた。でっかい太った白猫がニャーゴを背後から組み敷いているではないか。この白猫、二三度、同じような場所で見かけたことがある。ニャーゴは私の顔を見てニャンと鳴く。「おいおい、このこはまだそんな年ではないぞ。早すぎる!」と思わず声を荒げたが、シロスケ(と呼ぶことにした)は全然臆しない。そこでぐっと近づくと、シロスケはさっと離れて逃げるのだが、ニャーゴに未練たっぷりで近づこう、近づこうとする。そうこうするうちに、ハイテクリサーチセンターのT先生が通りかかったので、この猫たちをめぐって立ち話となった。このままだと、ニャーゴはいずれ小猫を生むことになるだろう。餌をやるなら、将来的なことにも責任を持たなければならない。T先生が自宅で飼っている猫は、怪我をした迷い猫を手当てしたのがきっかけだそうだが、獣医に不妊手術をしてもらったという。ニャーゴに餌をやっている者は少なくとも3人はいる。金を出し合って処置をしてもらうことにしたらどうかと提案し、仲介役をお願いしておいた。植木鉢用の受皿に大量に餌を盛る人がいるのだ が、それが翌朝きれいさっぱり無くなっているのは、シロスケがお相伴にあずかっているからに違いない。近世の遺跡からはけっこう大きな猫の骨が出土することがあるが、私の手元にはまだ猫の現生標本がない。シロスケは骨標本にちょうどよいという感じだ。もちろん、化けて出られるようなことをするつもりはないけれど。


2000年3月2日(木)

真脇遺跡縄文館とポーレポーレ

昨日から一泊二日の日程で、能都町真脇遺跡縄文館のイルカ展示を指導。朝、真脇ポーレポーレの展望台から、真脇湾と遺跡を鳥瞰する。晴れていれば海のかなたに立山連峰が望めるであろうに、あいにくの曇り空。昨夜のポーレポーレの宿泊客は私一人。夏場は満員となるホテルも、年末年始を除いて冬場は客足が遠のく。12月から2月までの3ヶ月間は、通常料金1万5000円のところを9000円で泊まることができ、しかも美味しい夕・朝食込みの料金である。丘陵の中腹に設けられた真脇温泉の入浴券もサーヴィスで付いている。写真右手に、ポーレポーレと温泉とをつなぐ渡り廊下が見える。いわゆる温泉街が近くにあるわけではないから、夜はゆっくり温泉に浸かって、あとは部屋にもどって心置きなく語り合うような集会に向いている。ちょっとした研究集会を開催するにはうってつけの会場である。2月が穴場だな。実際、昨年2月、COE(中核的研究拠点)奈良国立文化財研究所国際研究集会“考古科学的研究法から見た木の文化・骨の文化”が開催されたとき、その流れをうけて研究集会“真脇遺跡と環太平洋文化”を縄文館とポーレポーレで開催、5人の 外国人をはじめ、県外から参加した人たちの好評を博したのである。それにしても、一人では語り合うわけにはいかないね。


2000年2月18日(金)

野良猫ニャーゴ

昨年末から基礎研究棟付近の渡り廊下に細身の猫が1匹居ついている。まだ若く、すれていない。人の姿をみると、お腹がすいたとばかりにニャーゴと鳴く。で、私はこの猫を勝手にニャーゴと名づけた。人に育てられたが、身勝手な飼い主に捨てられたのだろう。この寒空にかわいそうにと情がうつり、夜中、帰りしなに餌を与えるようになった。ハイテクリサーチセンターは不夜城みたいだから、ニャーゴは夜間、窓のガラスにへばりついて暖を取っている様子。私の足音をきくと、窓辺から飛び降りて鳴きながら近寄ってくる。私以外の人からも餌をもらっているようだが、毎日、必ずというわけでもないのだろう。コーヒ茶碗の受け皿に餌をおいてやると、ゴロゴロニャーと喉をならして大喜びで食べる。大学前のローソンで買ったキャットフードよりも煮干しのほうが断然好物のようだ。写真をとってやろうと思っていたのだが、夜、フラッシュをたくと驚くだろうし、目が変に写るかもしれないからと遠慮していた。本日、昼間にお目にかかったので、デジタルカメラにおさめた。

金沢ひまわり平和研究室  気まぐれ日記 筆者 平口哲夫