十一屋小学校と日の丸の旗


金沢市立十一屋小学校『文集六年』(1958)表紙より抜粋


 
サンフランシスコ対日講和条約・日米安全保障条約が発効した1952年(昭和27)に私は金沢市立十一屋小学校に入学した。日本が正式に独立を回復したことを伝えるラジオニュースを聞いて、「日本はまだ独立しとらんかったん」と思わず質問したときの、父親の困惑したような顔が思い出される。5歳年上の姉が父の代わりに説明してくれた。「昔から独立しとらんかったんやないよ。戦争に負けてアメリカに占領されとったのが終ったんや」と。

最初の「父兄参観日」に1年生は日の丸の旗を描かされた。「濃いがにぬりまっし、濃いがにぬりまっし」とS女先生が言って回っていたことも、母と私との思い出話によく登場する。2年生のときの運動会では、日の丸の旗振りダンスをさせられた。私にとって日の丸は日本国独立の象徴みたいなものであるから、日の丸自体に悪感情を抱いていたわけではないが、「男がダンスなんてダラクサイ(あほらしい)」とばかりに二、三人の仲間と一緒になっていい加減に旗を振っていたところ、さっそく先生に注意されてしまった。おかげでその学期の体育の成績は2であった。このダンスの歌詞は今でも覚えている。「日の丸振って遊びましょ/あの子もこの子もランラン/まんまるまんまる真っ赤な日の丸/朝日をあびて日の丸だ」。当時、日の丸をめぐって揉め事が起きたという記憶はないが、のちに教育現場で国旗問題が生ずるたびに、私は小学校1・2年のときのささやかな体験を思い出す。日の丸が悪いわけではない。立場をわきまえぬ政治家の不用意な発言、その背後にある「懲りない面々」の考え方が問題だ。日本という国家が国際的に信頼される道を歩むかぎり、日の丸に対する内外の悪感情もやがて 薄れていくだろう。

小学校で男の先生に持たれたのは、4年生のときの I 先生ただ一人である。眉毛が太く、目がギョロッとしていて、ヒゲ剃りあとの濃い先生であった。当時は、2年間クラス替えが行われず、担任の先生も変わらないのが原則だったが、3年生のときの担任のK先生が産休をとられたため、I 先生が私たちのクラスを担当することになったようだ。顔を赤らめながら、にわかじこみのオルガンをブカブカとやたら強い調子で鳴らすのには閉口したものの、一所懸命の姿には心打たれるものがあった。ある日の国語の時間、先生はどういうわけか、兵士の一団がザックザックと足音を立てながら行進する様子を描いた詩を朗読した。それは2.26事件の反乱兵の行軍の様子だったように思う。I 先生が軍隊生活を体験された世代であることは確かであるが、なぜそのような詩の朗読を4年生にしたのかが今もって分からない。ストーブの傍らでその詩を読んでいたから、その事件のあった日のことなのかもしれない。これに関連して思い出すのは、5年生のときに私が書いた「自衛隊さんご苦労さん」という詩を、すでに担任を離れた先生が廊下の黒板に写していたことだ。その詩は道路工事や災害援助に活躍してくれる自衛隊員に感謝した内容のものであったが、ザックザックと行進する様子が描かれている点では I 先生の朗読した詩と共通していたのである。

『文集六年 卒業記念号』に寄せられた親たちの言葉に、終戦前後の苦労が偲ばれる。

「思えば終戦時に出生し続いて引揚げと、本当に今あの当時のようすを考えると、肌に粟を生ずる思いで一杯です。よくも幼いながらも命があったものと、すこやかに成長してくれたわが子をみるたびに、感無量のものがあります」

「この間の事情をおはなしすれば、長い時間と現実に生きる道の如何にきびしいものであるかを、信じられない事実を悟らねばなりません」

「妻のおなかに我子を抱いたまま、今日も明日も名古屋の大空襲の真最中に、何度死を覚悟したかわからなかった」

「妻の身より産まれてまもなく、背中におんぶされ空襲に逃げまどうあの悲惨なありさま、倒壊された建物の下より掘出された死体の数々、目をおおう無惨な姿、妻の背中に泣き声をあげて乳を求める長男の姿が目に浮かぶ」

「誰もいない仏間で、お父さん見て下さいとひとり申して、必ず良い子になります、ご安心下さいと報告いたしました」

「無気味な空襲のサイレン下に、日本を遠くはなれた満州の地に末っ子として産声をあげ、疎開につぐ内地帰国と、生まれ早々にしてあわただしい運命に支配されたこの子」


「空を征く日の丸の飛行機が次第に数少なくなるにつれて、米軍機の来襲が加速度的に多くなり、戦局の重大さがひしひしと感じられ、祝いを述べてくれる戦友ともども、わが子の顔は現世では見られぬだろうと語りあったものでした」

「南満州の片すみにてソ連軍や中共軍の圧迫にたえしのび、どうしても元気な男の子を生みたいと、自分自身をむち打ちながら不安な日々を送りつづけていたその夜、生憎と父さんはソ連の摂取した工場の夜警に廻され、三つの姉さんと二人きりで雪深い寂しい晩、母さんはあなたを生んだのです」

「食糧の不充分な当時は全く乳の出がとまってしまった。朝夕の牛乳は半分は水でうすめられて、幾月たっても生れてまもない顔をしていた」

「昭和28年7月ようやく日本に帰ることができたよろこびよりも、全然日本語のはなせない3人の子供たちをみるとき、入学後はどうなるだろうと、その不安でとても苦しかった」

「乳児のときは思うように哺乳もできず、またミルクも配給で思うように入手できず、親子共々泣きあかした」

「台湾の中部よりやや南、義嘉、その一つ先の水上というところが○ちゃんの生れた土地なのです。母さんは大きな腹をかかえて、空襲をさけるため夜の山道を3時間半ばかり、荷物をつんだ牛車の後を、それも先発の父のあとを追って、関子領という温泉のふもとまで、とぼとぼと歩いていきました」

「無気味な空襲警報のサイレンの音。素掘りの防空壕の土が時々ざらざらとくずれる。私は柳行李を守ってじっと息をつめている。行李の中で○子が無心にすやすやとねむっている」

「8月の炎天下、満州奉天の駅前は、走りくるうトラックとそかいの人たちで雑踏をきわめ、馬糞くさい埃がたちこめている。どことも知れず妻と子をそかいさせなばならぬ。もう生きてはあえぬだろう」

このような苦労話を掲載すると、日本人は被害者意識ばかり強くて、加害者としての反省が足りないと批判されそうである。しかし、
侵略された側の恐るべき被害について知り始めるのは、高校生になってからのことである。その情報の多くは、自分が進んで読んだ歴史の本や新聞を通して得たものであり、学校で教えられたことはたかが知れている。「広島・長崎」を直視するのはつらいことだが、避けて通ってはいけない。あってはならないはずのことが起きてしまったのはなぜか。そこからどのような教訓を学ぶことができるか。「自虐史観」でもなければ「傲慢史観」でもない、普遍的な人道史観に立脚したいと思う。


金沢ひまわり平和研究室  随筆 筆者 平口哲夫