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![]() 泉野分校の校舎と運動会(1957) 周辺が宅地化した現在とは隔世の感 |
金沢市立泉野小学校は、私が十一屋小学校に入学した年の翌年、昭和28年(1953)に泉野分校として開校し、昭和34年(1959)に独立した。その地は、旧泉野錬兵場の北西端に位置する。小学校5年(1956)のときに通った泉野分校のモルタル塗り木造校舎は、昭和59年(1984)に鉄筋コンクリートの堂々たる建物に改築され、いまや昔日の面影はない。ただ、校舎正面に向かって右側の木陰に立つ木村栄(きむら
ひさし)博士の胸像は、私の小学校在学時に建立されたものがそのまま移築されたものであり、いまも変わらぬ笑みをたたえて、遥かかなたの水平線を眺めているかのようだ。
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![]() 運動会(1957) |
本校・分校合同の運動会は泉野分校の運動場で行われた。背景の野田山から泉野分校までは、まさに野田であり泉野であった。写真は、「若い力」に始まる歌に合わせて演ずる第6学年男子体操、「競え青春」のポーズをとったところ(前から2列目の右から二人目が筆者)。歌詞は下記のごとくであったと記憶している。
若い力と感激に 燃えよ若人 胸を張れ 歓喜溢れるユニフォーム 肩にひとひら 花が散る 花も輝け 希望に満ちて 競え青春 強き者 香る鋭気と純情に 眸明るいスポーツマン 僕の喜び 君のもの 揚がる凱歌に虹が立つ 情け身にしむ 熱こそ命 競え青春 強き者 |
![]() 養父の墓(大乗寺墓地) |
木村栄(1870〜1943)博士は、篠木庄太郎の二男として金沢市泉野に生まれ、2歳のときに分家、木村民衛の養子となった。この養父から厳しい教育を受けたという話は、朝礼のときに校長先生から伺ったのであるが、各地の緯度変化を説明する式としてZ項なるものを発見した天文学者としての偉大さには理解が及ばず、そんな厳しい家庭に育てられなくてよかったと子ども心に思ったことを憶えている。また、担任の先生が、遺品の鉛筆が「ちびける」(小さくなる)まで使われ、また丁寧に削られていることに感心したという話を生徒にすると、ある女の子が「うちのトウチャンもや」(同じように丁寧に使うよ)と大きな声でいったことも思い出される。
明治13年(1880)金沢専門学校(第四高等学校の前身)入学。同22年(1889)同校第1回卒業式で第1号証書をうけ、東京帝国大学星学科入学。同32年(1899)岩手県水沢緯度観測所(現国立天文台地球回転研究系・水沢観測センター )初代所長に就任。 天文学といえば連想するのが父のことである。私が子どものとき、父が公民館に頼まれて星座の話をしにいそいそと出かけたことがあった。これは姉から聞いた話であるが、数学が専門なのにどうして星の話をするのかと質問したところ、実は天文学に興味があって第四高等学校から京都帝国大学理学部に入学したものの、当時、天文学では飯が食っていけない、まだ数学のほうが教職につけるからましだと人に言われて方向転換したのだという。そういえば、昆虫標本を作成するのに図鑑が必要だと言うと大学図書館から昆虫図鑑を借りてきてくれたものだが、自作の望遠鏡で天体観測をしたいと言ったときには天体図鑑を購入してくれた。父も興味をもっていたからであろう。 そこで、また連想が働いて数学にまつわる話が思い出される。中学2年のとき、算数の試験で70点代の成績をとったことがある。このとき級友たちのできばえがよく、80点以上はざらで、私は平均に近い点数だったらしい。答案を返されたとき、S先生は「君のお父さんは数学の先生ではないか」と言ってほしくないことを言ってくれたのである。実は、S先生、私の父が旧金沢工業専門学校の教授をしていたときの教え子であった。私はまじめに勉強していたにもかかわらず、たまたまこの試験では何か勘違いをして自分にしてはよくない結果となったのである。つぎの試験、ならびにそのつぎの試験も、いつものとおり勉強して臨んだところ、今度はたまたま連続100点の成績となった。先生からは「さすが」とお褒めの言葉をいただいたが、私は全然うれしくはなかった。「君のお父さんは」と言われて奮起努力したわけではなかったからである。教員の端くれとなったいま、学生たちにはもちろんのこと、自分の子どもにも親と比較してどうこう言うことは慎んでいる。 試験といえばもう一つ(それだけではないが)、苦い思い出がある。やはり中学2年のとき、A先生担当の職業の試験で、二つの問題のどちらか一方を選択して答えなければいけないのに、そそっかしい私は両方とも答えてしまい、どちらも正解だったのに0点をつけられる羽目になった。このような不注意は将来致命傷をもたらしかねないから、あえて0点をつける、というのがA先生の方針であった。以後これを教訓に慎重になったかというと、そうではなく、今なおそそっかしい私である。 |
金沢ひまわり平和研究室 | 随筆 | 筆者 平口哲夫 |