1961年(昭和36)に入学した石川県立金沢泉丘高等学校は、泉野出町という所在地が示唆するように、丘の上にあるわけではない。その頃は、学校の周囲には田畑がまだかなり広がっていて英語担当の長谷場千鶴子先生は、花粉症のせいか、菜の花の咲く季節になると休暇をとられた。先生は、アメリカ生れのアメリカ育ち、カリフォルニア州の大学を卒業され、泉丘高校の先生になられたのは1952年(昭和27)のことだ。私が高校を卒業した1964年(昭和39)3月に退職されている。 英語で思い出すのが、アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディ(1913〜63)の大統領就任演説が高校2年生の教材に使われたことである。演説を録音したソノシート付きのテキストが配布された。1960年の大統領選挙に民主党候補として出馬したJ・F・Kは、共和党のニクソンを小差で破り、61年1月に43歳という若さで大統領に就任。エネルギッシュな風貌と格調高い演説は、まことに魅力的であった。「同胞のアメリカ国民諸君、国が何をしてくれるかではなく、国のために何ができるかを問うてもらいたい」は、アメリカ国民や国を別の言葉に置き換えても通る、普遍性のある名言であろう。その大統領が1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺されたという衝撃的事件に、暗澹たる思いがしたことも忘れることはできない。 その数年後に購入したソノシートの讃美歌特集に「主、我を愛す」が収録されていた。解説によると、J・F・Kは、1943年8月ソロモン諸島付近で彼の指揮する魚雷艇が日本軍に撃沈され、重傷を負ったが、助けられた島で意識を取り戻したとき、励ましのために島民が歌っていたのがこの讃美歌であったという。この歌は私の好きな讃美歌の一つでもある。 ところで3年生の夏、泉丘高校野球部は夏の甲子園大会に4度目の出場を遂げた。対戦相手は和歌山県代表の南部高校であった。わがチームの主将小森(3番打者、2年生のときの級友)は、初回表に痛烈な安打を放って2死満塁を迎えたものの、次の打者が投手前ゴロに倒れ、好機を逸した。その裏、南部は2点を先取。3回表、頼みの綱の小森がデッドボールをくらい、意識を失うという不運に見舞われた。結局2対0で敗れ去ったとはいえ、甲子園大会出場は「文武両道」の伝統を再確認するような出来事であった。 ![]() 第45回全国高校野球選手権大会開会式で入場行進する泉丘高校チーム 旗を持っているのが小森君(写真提供) 我が3年1組も「文武両道」をいかんなく発揮し、担任の西野哲也先生が教育研究の発表のため数学の授業を自習時間とされたとき、「ソフトボールの時間などにするなよ」と前もって注意があったにもかかわらず、いざその時間がくると、誰かが「ソフトボールをしよう」とさっそく声をあげ、待ってましたとばかりに全員がグランドに走り出したのには我ながら唖然としたものである。運動会の仮装行列では、「悪人列伝」というテーマで参加した。J・F・Kなどを連ねた「聖人列伝」という案もあったのだが、「聖者の行進」を歌いながら「悪人列伝」を展開するということになったのである。キーラー嬢が出てくるあたり、世相がよく反映している。 |
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金沢ひまわり平和研究室 | 随筆 | 筆者 平口哲夫 |